TAAF『この世界の片隅に』作品制作ノート&監督トークショーまとめ
2018年3月11日東京アニメアワードフェスティバル『この世界の片隅に』作品制作ノート&監督トークショーのまとめです。
・文責は私an-shidaにあります。
・本記事はメモを元にしたまとめです。音声おこしではありません。
・発言そのままではなく、筆者が文章の調整をしています。
・登壇者の発言の趣旨から外れないように努めました。
・公式から指示を受けた際は速やかに公開を中止します。
・「この世界の片隅に」の内容に触れています。
2018年3月11日 東京都池袋シネリーブルシアター1
登壇者 片渕須直監督 氷川竜介氏
片渕監督 本来は上映をするものだけど、他所でも上映継続中なのでトークショーに。最初の企画書は小黒祐一郎さんがまとめてくれた。
氷川 この企画書のデザインは知らないバージョン。企画書に文を寄せた当時は、震災後で世の中が暗かった。輪番停電などもやっていた。震災で当たり前の生活が崩れるときに『この世界の片隅に』は必要な作品。
監督 自分が最初に映画にすべきと思ったのは、料理のシーン。自分にとって大切だと思った。読んだのは2010年08月。8月6日には(プロデューサーの)丸山正雄さんに提案、でもまだ原作を読了していない。
なぜご飯作ってるときにすずさんはニコニコしているのか、そんな人の上に爆弾が降り注ぐ、そのいたたまれなさ。戦争描く前に生活を描かないと、それは自分に関係ある物語だと。
氷川さん 「機微」というキーワードを推薦文に使った。たとえば夫婦は危機になることがある。ある人から夫婦について「わかろうとするな」「機微、それとなく察する」という趣旨のことを言われた。『この世界』は知らない人と夫婦になる作品で、結婚の経緯もあとから知って(周作さん、リンさんまわりのできごと)。ある人のエピソードで、見合いの席で「悪くない」と言っただけでそのまま話が進んだことがあって、そこも作品と似ている。そういうものを踏まえて(人の生活は)未来に続いていく、でも災害でそれが壊れてしまう。
監督 震災で生活が壊れてしまう、戦争中の生活を調べていくなかでそのことが重なった。戦時中、東京都の冷蔵庫に冷凍みかんイチゴの備蓄があった。
戦争は蒙る側からすると間違いなく来る災害、そういうときに人はどうするかそういうことを考えているうちに311が来てしまった。
【片渕監督のファイル芸もここから】
【戦争中の物資、当時の人がいる写真】
監督 18年銀座、ひざ丈スカートのおしゃれな女性。これは良くない例として載っている。他にも山本元帥死亡の時の百貨店展示を見る女学生、そのスカートも短い。じゃあモンペはどこに。そうやって調べていった。
【20年銀座空襲の消化活動。 20年3月空襲罹災窓口】
監督 そういうものを調べているときに311が起こる。日常が何かわかっていたつもりで上から震災が落ちてきた。(監督の)家の近くは直接の被害が少なかったが、スーパーから納豆がなくなったりそういう思いをしながら戦争中のすずさんを思い浮かべていた。他にもペットボトルの蓋もなくなった。
氷川 想像力ではなかなか追いつかないことがおこった。自販機の灯りが消えたりと、それだけで見慣れた街角が異世界のようになったり。その頃もう脚本を?
【シナリオのデータ映る】
監督 まずシナリオをやって時系列を明らかにしたうえで絵コンテをやると、自分の頭が異を唱える。それじゃダメだ、こうしたほうがいいじゃないかと。変更を加える。三段階ぐらいかかる。
【シナリオ 黒村キンヤ(径子の夫)はミートクロケット、径子カレーライスの文字】
監督 2011年6月28日にMAPPAのスタジオ入りした。犬OKのスタジオで、民家の畳の部屋。丸山さんが自分のマンションを犬不可で追い出されたのでスタジオに避難してきて僕らが追い出された(笑)。
氷川 シナリオについて。
監督 映像にしたとき良い流れになるように。最初はFパートまである。
氷川 普通はDくらいまで。テレビベースで二時間四パート。
監督 作品を作るにあたって120分を六分割する必要があった。1パート20分のつもりで+数分になっている。今のTVシリーズはわからないけど、僕らの頃は21分30秒とかの世界でそれに詰め込まないといけなかった。『この世界』は120分を超えてしまうとダメなので、それでリンさんまわりを切った。
氷川さん 私は『未来少年コナン』などの作品で、音だけのレコードを作る仕事をしていた。名場面を抜き出して片面30分に収める、モンスリーの結婚式で六歩歩くところを二歩にしたりと。だから尺に合わせる苦労はわかるかもしれない。
片渕監督 『ブラックラグーン』では、カット頭とカット尻を1コマずつ省く、でもそうすると映像のリズムが合わなくなる。そういうことをずっとやってきてそれはしんどいので映画だけやらせてほしいと丸山さんに訴えた。
(『この世界』では)すずさんの生活、機微を描いてきたところから1コマ引くことはできない。1コマずつ引くことで壊れてしまうものがある、だからシークエンスごと落とした。丸山さんもそう思ってた。丸山さんもリンさんまわりを切るべきだと。ただ丸山さんは(その部分を)抜いて成立すると思っていただろうけど、でも僕は大事なところだから落とそうと思った。
そうすると見た人が「なんであそこないんだ!」と声を上げるかもしれない(笑)。すずさんが料理するとこはしょりましょうとなると……。
氷川 そうすると映画の根本が崩れてしまう。
監督 料理とリンさんどっちを切るかとなったとして。料理と裁縫の大切さは僕が映像化しないとわかってもらえなんじゃないかという思いもあった。
氷川 リンさんまわりが最初からあったらヒットしなかった可能性もある。
監督 今は学校の授業での上映もやっていただいているが、リンさんのところがあるとそれはできなかったかもしれない。
ただ子供向けにしたいから切るということでは、全くない。上映すると違う作品になってしまう。
【浦谷さんのイメージボード】
監督 ラジオの線がどうなってるのかという疑問も出てきた。
氷川さん ラジオ少年だったので気になります。電灯線がアンテナ線に?
片渕監督 それもあります。呉は九の嶺がある立地で電波が悪かった。*1 玉音放送のくだりでも描いている。そういえばコンテ1.5稿がある部分もあるんです。それでラジオは電灯線の他に天井から一本線を足してある。そういう仕組みをわかった上で映画を作ることで、すずさんが本当にほんとうらしくなるのかも。
氷川 そういった取捨選択を観客も受け取ってくれると思っている? それとも(あくまで)作り手として必要だから?
監督 細部、情報はあふれるほどあっていいと思う。私は子供のころから絵本が好きで、シンプルな情報を削ぎ落としたものもある一方で、安野光雅(「旅の絵本」など)「ウォーリーを探せ」のような周到に描かれていたものもとても好きで、それらはずっと見ていられる。映画もそういうものを目指したということはあるかもしれない。
氷川 (情報量が多いのは)リピーターが多い理由でもあるかもしれない。
監督 ディスクが売れるとは言った(笑)。
【クリスマスの飾り】
監督 クリスマスモールは経木を蛇腹みたいにして作られていた。
【立野玩具店、吉岡幸介ネル店、オカッパ県女一年生などのコンテ画像】
監督 オープニング入るまでで106.5秒、尺をもう気にしている。シナリオやりながらわからないものが出てくる。台所を絵にする、その中でまたわからないものが出てくる。
氷川 設定制作のようなこともやられている。
片渕 小春橋の上で妊娠かもと気づいてから病院まで、妊娠検査でわかるまで何日かかるか? それは詳しい人がいて調べてくれた。そういうことを三日ぐらいで解決して進む。広島まわりは中川さんという方に調べていただいた。
氷川 そういう応援は何人?
監督 3人くらい。フィールドワークの中川先生、軍人の手記の中川さんと中川さんが3人いた。手記から軍艦がどの作戦に参加してどこにいたかという位置を割り出している人で、手記を借りようとしたら条件があると。呉の空襲で亡くなった女学生(勤労動員中に被災)を出してくれと、でもそれは(作品にそのまま入れ込むのは)無理! なので駅前を行進するところを描いた。
監督 駆逐艦椎から見えた街の灯り、灯火管制が終わった時のエピソード。それをこうの史代さんに言ったら、すずさんの家のモデルは祖母の家で、灯りの話をすると「うちのほうです」と。これも偶然。
監督 こうの史代さんの知人の中川さんが海軍の録事でお話を聞いた(マンガの巻末にも名前有り)。周作さんと同じ仕事だから、中川さんが終戦間際に軍人にされる日を調べた(周作さんの出立日時確認のため)。中川さんの名前のある資料を持って行った、すると中川さんの友人の名前もあったということで、こうのさんからも「とてもよかった」と。おかげで正確な日がわかったので、周作の旅立ちの日を雨にできた。
それがないと話が成り立たないかというと成り立つ、だけどその大きな違いをわかってもらえるか。
氷川さん 強度、裏打ち、厚みということでしょうか。「神は細部に宿る」というよく言われる言葉がありますが。黒澤明の伝説だと(映画には写らない)引き出しの下まで汚した話や’(劇中の)雑誌を実在のものにしないといけなかくて許諾が必要になったこともあったそうです。
監督 本多猪四郎監督の「空の大怪獣ラドン」を思い出す。劇中で福岡駅のまわりが吹き飛ぶんだけど、大学のとき○○君の家が飛んだのがわかった人がいた(笑)。
【すずさん起き上がる連続写真。浦谷さんがモデルで、次いで片渕監督の写真も」
監督 浦谷さんの動きを受けて自分が演出入れて芝居した。脚の上げ方早いとか、ものの持ち方。(キャラクターデザイン・作画監督の)松原秀典さんも輪をかけてこういう人。
氷川さん 実証主義。
片渕監督 (松原さんも)家でやってみたらやっぱりおかしいとか言い出す。楠公飯を食べるときの箸の持ち方がそう。アニメだとそのまますっと箸を持つんだけど、それは現実にはできないと。(箸置きから箸を取ってご飯を食べられるように持つためには、箸を取ってから)持ち替えないといけないということであの芝居になった。箸の持ち方を男女で違う風に振り分けるのは僕が指示しました。
注:楠公飯の箸の芝居については下記の記事が詳しいです。
監督 (資料を見ながら)スイカの持ち方や風呂敷の包み方。
氷川 僕はスイカはネットしか見たことなかった。そういう試みをしたものは逆に言うと、写真に残ってないということですね。
監督 マンガにはある芝居を、実際に動かして感じを出す。
【冒頭の石段(雁木)ですずさんが荷物を背負い直す場面の実演写真】
監督 海苔の缶も最初軽いと思ってたが、スタッフに海苔屋でバイトしてるやつがいて「重い」と(笑)。かなりこの手のことはやっている。
東京大森で海苔も作った。わかったと思って帰ったら、江戸前海苔と広島海苔の製法が全然違うことに気づいた。簾の目が縦は江戸前、広島は横。さらに江戸前の(海苔をかけるはしご)は五段、こうのさんのマンガ(の最初のほう)は六段、広島は七段。こうのさんのは「波のうさぎ」では直っている。
そういったこともアニメーションの動きに関わっている。(重いものをどう持つかということが)すずさんのバイタリティに関わってくる。
【天秤棒の写真、浦谷さんが実演】
監督 水がいっぱい入ってるけど持てる。持たないと揺れるよと栩野(幸知)さんに言われたりしたこともあった。本人は重がっていたけど、歩くぶんには腰が曲がったりはしない。
【わらじ教室】
監督 両手でやらないとできない作業なんだなと実感。あとはすずさんの着てる簑(ミノ)もめんどくさい。
木口バッグをかけている釘、釘には網目あるのか。でも映画では見えない。
呉のマンホール調べたい。マンホールマニアの方に教えてもらったが映画では出てない。点にしか見えない。マンホールは戦前から使われてるものもある。東京でも調べてみたら、阿佐ヶ谷のマンホールにも東京府時代のものがあった(都のマークでなく東京府か東京市のもの)。
氷川 過去が現在に置き換わるのでなく、過去が積層していくんてすよね。
監督 そうですねそうですね。
氷川 そういう実証主義的なものをどうやって作ろうと思うようになったんですか。
監督 『未来少年コナン』見て業界に入ろうと思ったが、大塚康生作品だと思っていた。2歳3ヶ月で『わんぱく王子の大蛇退治』ラストの大塚パートを映画館で見たので。
大塚さんの出していた課題があって。ガード下の呑み屋でコップ酒持つ中年オヤジを描けという試験、コップの持ち方はこう五指で縁を上から鷲掴みのようにつまむ芝居でないとダメだと。パントマイマーの動きも参考にされていたけども、パントマイマーと観客(あるいはアニメーター)に共有するものがないと動きの意味がわからない。
『この世界』はそれができないかもしれない。なぜなら我々は天秤棒持ったことないから。体感しないと先に進めないような気がすると思っていた。体験してないことを共有するのは大変なこと。
氷川 アニメはファンタジーだからそういう実際のことは不要と思う人が今でも多いかもしれない。
監督 すずさんが着物をもんぺに直すカット、あの直し方はダメなやり方(本当は一度反物に直してから改めてもんぺにする)。でも劇場で観ていた70代のおばあさんはわかった。径子さんのもんぺを覗き見するシーンを足したのも、目測ですずさんが着物を直そうとしたということがわかったから。
監督 長尺版で二千馬力のエンジン作るお父さんを出したかったけどわからなかった。
氷川 終戦時に焼かれて残っていないのでは。
監督 その場所を進駐軍が利用していて、覚えている人もいるが調べきれなかった。エンジンの試作品の試運転してるところが欲しかったがわからなかった。
氷川 他作品でも本当はこうでなかったと感じられるところがあることも。昔のものを現在の技術で再現しても違うし。音も違う。
監督 そのへんは(音響監督の)柴崎さんがなんとかしてくれるような。ところで劇中のB29は本物の音。でも自分たちがどれだけ信じることができるかどうかで、すずさんたちの世界の強度が変わってくると思う。
【雨の見え方は何コマごとにどれだけやれば本物らしく見えるかという図】
監督 雨の見え方も人間の目の分解能などについて考えてしまっている。人間の目に見える世界をアニメにするのかどうなのか。
氷川 昔した質問で(本当の世界ではないはずのカメラのレンズに)「カメラに血しぶきはつくか」。押井さんはつくという。
監督 『ブラックラグーン』はつけたけどあれはB級映画風であったからつけた。曳航弾は肉眼とカメラで全然違う、映像だとモーションブラーがレーザーのように長い。(肉眼の映像、カメラの映像の)どっちをとるかですずさんがどう見てるかという(作品そのものの)腰の位置、立ち位置の問題。自分たちがどう思うかというそこから入っていきたかった。
氷川 とはいえ映画中で統一されたルールがないとお客さんが困るかもしれない。
監督 ありとあらゆることですずさんの実在を感じたい。
氷川 温度や空気感については。
監督 気温は表現しにくい。円盤で画を更新、リテイクは200以上。寒さの表現として白い息を足した。
【すずさんの家(長ノ木)の話。家から出て鷺を追うシーンの再現動画】
監督 上を見ながら階段降りるってどういうこと? という松原さんの疑問実演動画。階段降りるときは下を見ながらという教科書的なものから離れられるか離れてよい場面なのか? それを確かめたかった。
【編み物の連続写真】
監督 (編み物は)アニメだとリピートしてるだけのことが多いけども、アニメーションの中に持ち込んでかたちにしないといけない。自分たちはやりなれてないことも彼らはやりなれている。鷺を追って心が鷺にとらわれているそういう走り。もっと簡単なやり方もあるけど。
氷川 その積み重ねが映画の重みや魅力になってると思いますが、達成度は?
監督 ディスク化にあたってリテイクもしてるのであまり悔いはない。すずさんはいると思ってもいいと思えるように、自分たちが人物の背景を持たせたという意識があるから。
氷川 (達成度は)今までよりも高いところに行ったと。
監督 他の作品だと直したくなる気持ちがある。『マイマイ新子』は新子の登校時、コンクリの何かがあったんだけど、それがなんだかわからないまま映画にしてしまった。その小学校はアニメーターの金田伊功さんの母校だったんだけど、金田さんの同級生に聴くと「金田君はアヒル当番でコンクリのうえにアヒル小屋があった」と。それを描き足したくてそれをできたら想いを確かなものにできたのにと。
氷川 次回作については。
監督 もう一回こういうアプローチしたい。完全なファンタジーでなくて、行くことができない場所を作り上げていきたい。自分の目で描きたい。
氷川 いつ頃ですか。
監督 2021年がマッパ10周年だけどそれよりは早くしたい。
氷川 2025年は昭和100年だからそういう仕事もくるのでは?
監督 今までの蓄積あるのでできるかもしれないけど、違う世界にも惹かれる。アニメーションの世界に入ったのもそうなのかもしれない。空想の場所に行きたいという想いがあったかもしれない。自分はその気持ちは外してはいないとおもう。
氷川 (「ここではないどこかへ」について言及あり。他メモしそこない)
【質問コーナー】
質問者 初見時テンポが早く感じた。先程尺調整のために1コマ落とす話があったがそれの名残みたいなもの?
監督 それもあるかもしれない。テレビシリーズだとまた息づかいが違う。原作は1話ごとに必ずオチがつく、それはこうのさんが四コマ長かったから、その癖だそう。映画ではエピソードを分断しないようにして、ひとつながりの時間と空間の中にすずさんがいてほしかったという想いがあった。
でもこんなに切ってない作品は初めてかも。オチがありつつも次の話が入り込んでくるようなひと続き。
氷川 最後に一言お願いします。授賞は今いくつくらいですか?
監督 賞の数が50を超えてもう数えられないぐらい。でも一つ一つ異なった観点で賞を頂いているんだなと。アニメアワードもそうで、観ている人には色々なことを感じてもらえればいいなと。上映も続いていてできればこれからも続いてほしい。すずさんの実在感を映画館で感じてもらえるように作った。
大きな画面の中に小さいすずさんがいて周りの自然や鳥がいてという風に作っているのでぜひそれを体験してほしい。
*1:ここの項、不正確かもしれません
再び高みを目指して~輝木ほまれの上昇しない世界と長い助走
『HUGっと!プリキュア』4話「輝け!プリキュアスカウト大作戦!」は素晴らしかった。
※アニメ演出家田中裕太さんのファンが書きました。
4話は主人公の一人輝木ほまれの物語だった。ほまれはフィギュアスケートに挫折した女の子。
前半では飛ぶことそのものから距離を置いているが、主人公はなたちとの交流や敵の出現もあって後半で再び飛びたい(プリキュアになろう)と自ら願う。だがその想いは叶わない。そんな話だ。
さて、この話では田中裕太らしい演出が際立っていた。ではそれはどんなものか?
一言で言うと「輝木ほまれが徹底して上に行かない」ということだ。それはほまれが飛べないことを表した演出でもある。
バスケをするシーンではスケートの失敗がフラッシュバックして飛べなくなっていることが示される。
後半の戦闘シーンでほまれはもう一度飛びたいと願うが、その手は届かない。
「上に行かないこと」の具体例を見てみたい。彼女は一貫して横、下への移動をしている。本編中、座り込むこともなく、あてなく彷徨っているようでもある。前半ではほまれは走らない。本人が飛ぼうと思っていないから、飛ぶための助走は彼女の生活に必要ない(迷い犬や子供を助けるためには走る。他者の為に走ることはできるが「自ら飛ぶ」ことはない。これは次回へ繋がるモチーフになるだろう)。
ここでもそうだ。特に下の画像でははなとさあやは階段を「登る」芝居があるが、ほまれは登り切った後からカットが始まっていて「アニメの中で上に行くシーン」がない。
一人歩く、水平移動を執拗に繰り返す。繰り返すことで視聴者には考える時間が与えられ人物の心情に寄り添うことができる。
後半。
戦闘シーンではほまれ以外のプリキュアがさすがに飛んだりするかと思いきやカットごとの見せ方で「直接上に飛翔する」シーンはほとんどないと言っていい。むしろ横の動き、上から下へと振り下ろす動きが印象的。もちろんプリキュアたちがほまれの夢を邪魔するわけではないから、純粋に「飛ぶことをほまれのためにとっておく」演出だろう。五七五になってしまった。
ブログ用動画。 pic.twitter.com/dPtrTmQf0e
— an_shida (@an_shida) 2018年2月25日
ほまれが決意して走るシーン。飛びたいと願い走るが下方向に走っていることで失敗が示唆される。そんな言葉だけでは足りない重層的なシーンになっている。*1
田中裕太ファンとしてはこの別レイヤーで物語が進行するシーンも忘れ難い。
— an_shida (@an_shida) 2018年2月25日
(類例:ドキプリ40話、ソードが歩く奥でハートたちが目まぐるしく戦う場面) pic.twitter.com/AOXA13F7T5
これらは全て、ほまれが次回キュアエトワールへと飛翔するために必要なことである。逡巡しながら歩き回ったことも飛ぼうとして失敗したことも無駄にはならない。
ラスト、ほまれは上を見ながらも踏み出そうとしない。今はまだ飛べない彼女がいて、その立ち位置はさあやとはなよりも少しだけ高い。*2
おわりに
田中演出の魅力の一つは「画面の単調さを回避」しつつ「説明言葉に頼らず」「キャラの個性を強く印象づける」ことだ。
ところで輝木ほまれの苦闘はもう少し続く。次回が佐藤順一コンテなのでこれを受けてどんなアニメが観られるのか楽しみだ。
これからも田中裕太の作るアニメを観たいと強く願う。*3
ワンダーランドの栩野幸知~「この世界の片隅に」「この空の花~長岡花火物語」
※『この世界の片隅に』と「この空の花~長岡花火物語」の内容に触れています
男性「ほう、お嬢さん絵が達者じゃねえ」
女性「はあ、子供達が喜びますけえ、こうやって描いとります」
ちょっと長い前置き
あるとき、あるところでこんな議論があった。
映画『この世界の片隅に』の話
憲兵役で出た役者が、パーティで憲兵の扮装をしたことに対する批判とそれに対する応答。
戦争、過去の出来事に対する議論はものすごくものすごく多くの切り口があって到底ここでは書ききれない。ただ「〇〇は△△だった」と単純に言えないことは多くの歴史が証明している。
監督もこの件について意見を述べられているがそれも議論が長くなるのでここではふれない。
では『この世界の片隅に』の監督、片渕須直は戦争をどう捉えているか?
片渕須直監督の戦争について語ったものの中で、最も私の心に残ったのは以下のツイート。
(質問の続き)
— an_shida (@an_shida) 2017年6月23日
戦争で変わった服が「今と同じよう」に戻る。いつそれが戻るか調べることで、私たちの生きている世界との繋がりを再認識したし、自分なりの盛り込みどころです。アヌシーでクライマックスはどこか?と質問を受けて「エンドロールです」と。(続く)#この世界の片隅に
(回答の続きの続き)
— an_shida (@an_shida) 2017年6月23日
「クライマックスはエンドロール、女性たちがスカートを履けるようになるエンドロールである」と。#この世界の片隅に
これはどういうことか。
平時なら誰でも当たり前にできることができなくなる。好きな服を自由に着ることができて、絵を描きたい人も自由にできる。
そんな「普通」ができなくなるのが戦争であり、『この世界の片隅に』は戦争が始まって終わるまでの話でもある。
映画のクライマックスはエンドロール。今の視点から見ると当たり前の「女性がスカートを履いて畑に立っている場面」だと。
この考え方に沿うと「いいおじさん」だったはずの男性も戦争という事件のせいで「憲兵さん」になってしまうともいえる。一市民や憲兵になった男性に「戦争責任」があるかどうかということもここでは議論しない。
はっきり言えるのは「戦争で変わってしまったもの」があるということだけだ。
男性「ほう、お嬢さん絵が達者じゃねえ」
女性「はあ、子供達が喜びますけえ、こうやって描いとります」
これもまた選ばれなかった未来だ。戦争が「海岸線と軍艦を描くスパイ行為の女と取り締まる憲兵」を生み出したともいえる。
映画の話
それで「この世界の片隅に」 「この空の花~長岡花火物語」が東京の早稲田松竹という名画座で上映されていた。「この空の花」は公開時に話題になり、その衝撃は次の記事がわかりやすい。
2つの映画は全く似ていないようでよく似ている。似ているようで映画の見た目は全然違う。だがその本質はとても近い。
戦争と現在の私たちを繋げたい
どちらも、戦争を題材に異色の切り口で表現した映画だが
『この世界』は「タイムマシンに乗ってあの時代に行くような」
『この空』は「現代に無理やりにでも力技で戦争を重ね合わせる」
そんなアプローチだ。
『この世界の片隅に』の一場面。野草や魚、台所用品の数々、これらはスタッフが調べてそれを画にしている。
今と違うようで同じ。映画全体を通して可能な限り再現しようとしている。
それは戦争といまが地続きであることを見せたかった、たからこそ本当にあったものを探して描き、本当の街並みを再現する必要があった。
「考証がすごい」のでは断じてない。そう謳う作品はいくらでもある。
「観客をタイムマシンに乗っていると錯覚させるためには、全て調べあげなくてはならなかった」が正しい。
一方「この空の花」。どう見ても合成の炎、あまりに安っぽい。とてもタイムマシンに乗る様相ではない。
だがそれもまた戦争を現在に甦らせるためのひとつの力強い表現だ。
この一見安っぽい画面は映画のなかで次の美しい画面と地続きになる。
地続きになるけどもとても言葉で表現できるものではない。その手法は大林宣彦だけのものだ。是非確かめてほしい。きっと今まであなたが観た映画のどれにも似ていないから。
「まだ、戦争には間に合いますか?」と問いかけた「この空の花~長岡花火物語」
「間違っていたなら教えてください 今のうちに」とつぶやいた『この世界の片隅に』
是非多くの人に観てほしい、そしてできれば両方を観てほしい。戦争の悲惨さをストレートに訴えるのとはまた違うかたちで闘いぬいた記録だ。
終わりに。栩野幸知さんのこと~2つの映画を繋ぐ
この両方に出ているのが栩野幸知さん。
『この世界』では先ほどの憲兵さんとして声の芝居をしている。
「この空の花」には生身の役者として出演しているが、役どころも違うし実写とアニメだから気づかない人も多いだろう。私は初見時には気づいていなかったし、先日早稲田松竹で「この空の花」を見るまで、彼が出ていることにも気づいていなかった。
ここからは全くの自分の空想を描く。
「この空の花」で栩野さんの役どころは「先生」だ。戦争で赤ちゃんを喪ったお母さんがその体験を子供達に語るときに、紹介をする先生の役だ。栩野さん演ずる先生はお話と子供達をとても優しいまなざしで見つめている。
その時、私の中で二つの映画が強烈に結びついた。
戦時中、広島の呉で憲兵さんとして威張り散らしていた姿と、戦後長岡で優しい先生として映画の中にいた姿が重なった。
『この世界』で絵を取りあげられた女性の自由が取り戻されるのは、エンドロールでスカートを履いて、その場所で船を見つめても誰にも何も言われない当たり前の風景として、表現されていた。自由と平和が静かにそこに在った。
そして「憲兵さん」の元々の姿までもが、広島から遠く離れた長岡を舞台とした「この空の花」によって取り戻されたように感じた。
憲兵から先生へ、あるいはやさしいおじさんも意地悪な憲兵になってしまう、平時と戦争の対比。
「この世界」の原作でも映画でも憲兵のその後は描かれないからこそ、「この空の花」に彼が出演していることはより大きい意味を持っていると言えるのではないか。
この二つの映画はアプローチこそ違うが戦争を真正面から捉えた双子だと感じた。
ただ、観てほしい。体験してほしい。それが筆者の願いです*1。
男性「ほう、お嬢さん絵が達者じゃねえ」
女性「はあ、子供達が喜びますけえ、こうやって描いとります」
話数単位で選ぶ、2017年TVアニメ10選
今年も参加。
話数単位で選ぶ、2017年TVアニメ10選
『3月のライオン』26話「Chapter.52 てんとう虫の木(2)」「Chapter.53 てんとう虫の木(3)」
『リトルウィッチアカデミア』8話「眠れる夢のスーシィ」
『亜人ちゃんは語りたい』11話「 亜人ちゃんは支えたい」
『正解するカド』1話『 ヤハクィザシュニナ』
『エロマンガ先生』8話『夢見る紗霧と夏花火』」
『魔法つかいプリキュア!』49話「さよなら…魔法つかい!奇跡の魔法よ、もう一度!
『ネト充のススメ』6話「恥ずか死んじゃいます!」
『アニメガタリズ』11話「共ニ語リシ光輝ノ裏切リ」
『ヘボット!』第45話「ギザギザ・ザ・ネジ山」
『サザエさん』2443話 No.7652「主婦のシェフ」
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ネットで風刺は生き残るか~宮崎駿引退ツイート問題について
宮崎駿の引退にまつわるツイートが、テレビで「事実」として紹介されたことで色々な考えを読んだので久しぶりにブログを書いてみる。
ネット社会で風刺はどうやって発表すればいいのかと考えさせられた。
「風刺」がネットでデマ認定されるのは、紙メディアと性格が違うからなんだろうなあということ。
1.あらすじ
まとめはこれ。
※これは宮崎監督の実際の発言そのものではありません。
https://pbs.twimg.com/media/DA4OTLhV0AEXHm8.jpg
今回の当事者、あれっくすさんが過去にツイートしたのはこちら。
※これは宮崎監督の実際の発言そのものではありません。
86年ラピュタ「人生で最高に引退したい気分」
— あれっくす (@NStyles) 2013年9月1日
92年紅の豚「86年を上回る引退の意思」
97年もののけ姫「100年に1度の引退の決意」
04年ハウル「ここ数年で最高の辞めどき」
13年風立ちぬ「出来は上々で申し分の無い引退のチャンス」
宮崎駿監督は過去に何度も引退したいという発言をしているのは事実で、『風立ちぬ』の際には引退記者会見をしている。*1
*1:引退宣言を何度もすることによって「今度が最後!」と銘打って商売をするわけなので、安易な引退宣言と復帰については批判された方がよいと思う。プロレスラーには散見される。『風立ちぬ』で引退するときにも「どうせ復活するだろう」という意見はいくつも目にした。ただビジネスである以上、少しでも宣伝をうまくやりたいたいプロデューサーの気持ちはわかる。ジブリ展で自分の書道を披露したい人の気持ちはわからないが。
浜村淳、またまた『この世界の片隅に』を語る~おおさかシネマフェスティバル授賞式
毎日放送のラジオ番組「ありがとう浜村淳です」3月6日回の『この世界の片隅に』部分を文字おこししました。
※映画本編の内容にものすご触れています。未見未読の方はご注意ください。
浜村 昨日、大阪の堂島にありますホテルエルセラーンで「おおさかシネマフェスティバル」の発表授賞式が行われまして。
佐々木 ええ。
浜村 このホテルがいつも言いますとおり、もうお洒落!
(中略)
浜村 その他に作品賞。アニメーションです。この世界の片隅で。
佐々木 この世界の片隅「に」?
浜村 片隅に。『この世界の片隅に』。えー、確かにそう。大阪日日新聞にそう書いてあります。わたくし喋ってるうちはねえ、司会してるうちは間違わないんです。
佐々木 (笑)。