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「聲の形」竹内先生が好きだ、という話。

 

アニメ映画にもなったマンガ「聲の形」の竹内先生が好きだ。好きだというとちょっと言い過ぎかもしれないが、彼の屈折、鬱屈、環境を考えると「ただの悪役」で片づけられない。そこに自分は心を惹かれるもの、考えずにはいられないようなところがある。

 

この記事では、竹内先生の立場から物語を見つめることで、彼について考えてみたい。

ちなみにアニメ映画では、かなり出番が減っているので、ここでいうのは主にマンガの竹内先生についてである。

 

まず「聲の形」は聴覚障害を持つ少女とその周囲の人の物語だ。

竹内先生は彼女が転入してくる小学校のクラスの担任で、wikipediaを引くとこういう説明。

将也たちの担任を務める男性教師。眼鏡をかけている。障害を持つ硝子についても積極的に受け入れたわけではないようで、硝子への支援をクラスに丸投げし、障害をからかう将也の冗談を咎めようとせず、一緒に笑ったこともある。喜多の指導に水を差して制したり、学級内のいじめを「自己責任」と黙認するなど放任、責任回避傾向がある。(後略)

 

聲の形 - Wikipedia

 どう見てもいい役ではない。実際に彼は聴覚障害のある西宮硝子へのいじめをほぼ黙認し、最終的には転校させることになる。

私の見てる範囲でも「竹内先生大好き♪」という人はまず見かけなかった。

 

前提~教師は辛いよ 

私は教職に就いたことはないが、友人知人に教師は幾人かいる。ネット記事でもいくつもあるが先生という仕事は今日でも大変だということだ。

西宮硝子が転校してくるのは特別学級ではなく普通の学級である。

この時点で

・竹内先生にも学校側にも障害者を受け入れるノウハウやシステムがないのではないか

 

 ということが考えられる。喜多先生が「私も手話を知らないけど皆で覚えていきましょう」といかにも場当たり的なことを言い出したり、硝子の筆談がノートであったり(回答の際に1ページ丸々使っていたり)と随所でシステム面の不整備が窺える。

あるいは竹内先生は若手の教師として「押し付けられた」という風に見ることもできないだろうか。

 

余談になるが私も障害者とともに職場で働いている(現在部署は違うが)。多くの先人の知見、私にとってはネットでの当事者たちの聲を聞き、当面特に問題なく過ごしているが、強く思うのは「いい人かどうかとか、善意があるかないかはあまり関係ない」ということだ。

健常者と同じように仕事をこなすことができないなら、会社と本人にとってOKが出せる業務というものを考えていく、それはケースバイケースであり、そのことに「慣れていく」しかない、というのがある社会の現場からの感想だ。とにかく吟味検討する時間なりノウハウなり、がなければいけない。

 

 

等身大の若者は教師を演じつづけられるか

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「教師は聖職」とか言われたりもする。*1

担任をこなすだけで精いっぱいのところに、障害者が急に来る(強調されていないが学期中の転校だ)。

 

それでも竹内先生は、それなりに真摯に向き合っている。少なくとも最初のうちは。

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このコマだけ見るとごく優しい教師に見える。私には彼は「障害者はハンデを持っているので健常者はできる範囲で助けなければならない」というぐらいの普通の感覚があるように思われる。

 

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授業でもちゃんと当てている。本当に面倒なら最初から当てない。授業が遅れるからだ。

少なくとも最初から彼は面倒くさがったり、邪険に扱ったりはしていない。

繰り返すが、障害者がいきなり自分のクラスに転校してくるのは想定外のイレギュラーな出来事である。

 

 

だが、石田が彼女に目をつけて、クラスが混乱し始めると、彼のキャパシティをオーバーし始める。

 

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最初は常識的な教師として指導しているが、それでもいじめはなくならない。

 

 

 

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このあたりは単純な悪役、嫌な奴というよりも、余裕がなくなり大人対子供、教師対生徒として振る舞えなくなっているように見える。

 

 

 

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不謹慎な石田のギャグについ笑ってしまう。ネットを見ていても障害者に限らず、人は他人のことをデブ・ハゲなど嗤うものだ。彼は等身大の若者だ。聖職につく聖人ではない。他の多くの教師がそうであるように。

 

 

 

喜多先生への辛辣極まる一言。

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これは喜多先生だけでなく、いわば丸投げで大きな責任を負わされた青年の本音にも思えないだろうか。聴覚障害者に接するための何らの助けもなく(喜多先生も手話を知らない)、自分だけが大変な思いをするのは納得できないという感覚が彼にはあると思う。

 

私見では「システムを整えないままで、西宮母に押し切られて受け入れてしまう」校長がいちばん悪いが、逆に本作で校長は補聴器の値段について説明するぐらいで特に悪役然とも描かれないし、善人としても描かれてはいない。

 

「うっかり」本音を言ってしまう。

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テストの採点の下にはスケジュール帳、ハガキ、便箋、お知らせのプリントのようなもの。ブックエンドのあたりも乱雑で、多忙であることがわかる。

西宮のせいで仕事が忙しく乱れているのか、それともそもそも能力がないせいなのか。前者であっても後者であっても、責任をすべて彼に負わせてもいいのか。

 Wikipediaには「クラスに丸投げ」とあるが、どっちかというと「学校側が竹内に丸投げ」しているように見える。

 

 

 

 

そして石田と硝子たちの小学校生活は辛い結末となる。

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これだっていじめをやめない石田が悪いのか、止めることができない竹内が悪いのか。

そして作品中では描かれてはいないが、人間関係の問題は石田西宮だけでなく並行して大小さまざまな問題が進行しているはずだ。竹内の監督すべきは石田と西宮だけではない。それをおそらく20代の若者一人だけに架していいのか。そんなシステムだから教師の鬱が問題になるのではないのか。

繰り返すが、教師にとって普通のクラスを一つ持つだけでとても大変なはずだという前提がある。

 

そして数年後。一人の人間として、教師として

時は流れ小学生だった石田も西宮も高校生になり、物語は進んでいく。

竹内は同じ小学校の教師をしている。

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この場面。少なくとも教師間では竹内が異常な人間とまでは言えず、そこそこまともな人間関係を過ごしていることが窺える。と、同時に「貧乏くじ」を引きがちな人間であるようにも見える。*2

 

 

高校生になった石田を迎える竹内先生。

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自分と同じ高校に行っているということは、自分と同じだけ努力したというだけでないことを彼はわかっている。小学校時代、最後はいじめにあっていた石田が自分と同じ高校に通うためには、自分以上の努力をしたのだろうということがわかっているはずだ。

 

 

ただ、竹内にとっては「過去の出来事」である西宮の一件は、石田達にとってはまさに「現在進行形」の出来事だ。会話は当然かみ合わない。

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この場面、教え子の石田が立派に成長したことを喜びつつも、当時竹内自身が自分の許容量以上の重荷を受けていたことが語られている。

無論、彼の行動がよかったと全面支持はできないが、同時に全面否定もできない。

 

退場する竹内、あるいは青年教師の屈折

私は彼の最後のシーンで、本作で最も泣いた。

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竹内の言動に腹を立てた真柴に水をかけられ、やはりお前はダメなやつだという暴言を吐く。

 

その一方で手話をある程度覚えている描写がある。

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竹内と西宮は直接会話をしていない。前後の文脈で類推しているのではなく、純粋にその手話を見て理解をしている。つまり、ある程度の時間を、少なくとも「久しぶりに来たかった」という極端に使用頻度が多いわけではない手話を(ありがとうとかまたねに比べれば)、理解するだけの勉強を、彼はしているのだ。

それが後悔の念だったか、自身のキャリアアップのためだったか、教師としての矜持だったかは明示されない。だが硝子と出会って何かが変わった石田や植野、佐原たちと同じように彼も「変わっていた」のだ。

 

そして最後のこの台詞。

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真柴は水をかけたが、石田は最後まで竹内に対して暴言も暴力も出さずに「礼儀正しい彼の教え子」として振る舞っていた。そして自分が遂にコミュニケーションできなかった西宮とも真摯に向き合って、懸命に今を生きている。その時点で石田は竹内を遥かに超えていたのだ。

 

そして怒りにまかせて暴言を吐いた竹内も、この瞬間だけは「聖職者たる教師」になり、ただ彼の成長を喜んだのだ。

竹内と石田の接点はここで終わる。二度と会わないかもしれない教え子にずぶ濡れのまま、周囲の教師に取り繕うでもなく、淡々とかつての生徒が立派になったことを喜び、メチャクチャな状態で卒業した彼に、「君は立派になった」と、きちんと言葉にして伝える。で、ありながらも自分の非を認めて、謝ることはできない。自分よりも「立派」になってしまった石田を一言、捨て台詞のようなかたちで認めることしかできない。それ以上を竹内はできない。そしておそらく彼の長い人生の中で、立派な教え子ともうふれ合うことがないという、以後は断絶されて、彼の日記帳に何も記されることはない。

 

一人の教師が、一人の生徒との最後の別れをする。教師は生徒を認めながらその生徒には受け入れられず、きっとこれからもそのままの関係で居続ける。

それをわかっていても、一言言葉を投げかけて、成長を喜び、一人の教師は日々の日常に戻っていく。過去のいかなることも救済されずに、ただ一人の成長を自分の中だけで祝い、もしかしたら西宮と石田の幸せな人生を時折夢に描いたとしても、それでも竹内がその先を知ることは全くない。

これ以上に切ない場面が「聲の形」のどこにあるだろうか。少なくとも私にとってはこの場面が最も切ない。感動的な物語から置き去りにされてそれでも一人の人生をたった一人で生きていかなければいけない竹内先生という脇役の、教師を自らの天職として選んでしまった「ごく普通の男」の人生が、何よりも切ない。

 

 

「聲の形」は西宮硝子という聴覚障害者が「いきなり」登場人物の前に放り込まれることによって、人々が何らかの変化をする物語である。

『映画 聲の形』はそれを、積み重なる「波紋」によって表現した。幾度となく「飛び降りる」物語とその結果生まれる波紋を、若者たちのチャレンジと結果として見事に描いた。

だがその波紋の陰に、原作だけに一人の青年の屈折と、おそらく苦闘、教師としての苦い経験も、刻印されている。

そして、それは映画が終わり、水面に映った波紋が消えてもずっと私の心に残り続けている。

 

 

 

 

(2017.02.02追記)

教室で大声を出すシーンについて追記。映画でもカットされなかったあの場面を省くことに意見を拝見したので。

本記事ではあそこを忘れている人はいないだろうということで省いた。ただその是非、評価も他と同じである。竹内という若者が教師を演じることができずに正論「いじめた石田が悪い」ということを乱暴に言った、というだけである。私は教師を聖職とは思えない、ふつうの人にその責任を負わせることを望まないし、無理だと考えている。

あそこで竹内が「恐ろしい態度」を示したことで、子供達はさらにこじれたともいえる。あそこで何も言わない校長が悪い、何か言えよ管理職だろとは思う。

 

原作者大今良時が「全員嫌いです」と言うように、登場人物の行動には突っ込みどころというか、隙がある。それは自分の意見を言えなかった硝子もそうだし、全員が何がしか未熟なのだ。

この作品については、自らの人生とひきくらべて、深く強い想いを持つファンが多いと思っている。自分も学生の時よりは年を取ったので、どうしても「それは適切なのか」というシステム的な側面から見てしまう。竹内が一方的に悪者であるのではなく、全員が至らないということだ。それは無能とか馬鹿ではなく、人間は全く新しいものに対しては戸惑ったり間違えたりするものだ。

そういう若い人のみずみずしい感性をまぶしく感じるとともに竹内を「大人なんだからちゃんとやれ」というブラックボックスに押し込めるのも、ちょっと違うんじゃというか、大人になったら自分に跳ね返ってくるよねという話だ。あれだけ言っていじめをやめない石田をどうやって止める? 体罰? 親に言う?(言ってもあの時点の石田がやめるだろうか) クラス替え?(替えてもいじめそうだ) おいそれとは解決がないのでは。あのシーンでキレても、例えばずっとオロオロしている「優しいけれどダメな先生」でも物語の大筋は変わんないだろう。

 

繰り返しになるが、読者、観客が竹内に対してムカついた気分を私は否定しない。

殆どの人物が何かしら前向きな成長だったり解決を得ているのに、竹内は「教え子の石田が立派に成長した」という事実を自分の中でだけ認識する。それしか救いはない。後に残ったのは西宮にまつわる教師としての失敗と立派になった教え子との断絶だ。

「大人」である責任は、こんなかたちで竹内に返ってきてるのかもしれない。

※ところで校長は罰せられていない。それもまた苦い。

 

*1:個人的見解として「教育」について誰もかれもが一家言あるかのごとくに「こうすべき」「それはおかしい」とか言うのが極めてノイジーである。あるときある期間後輩だったり、わが子だったりにものを教えたことがあるとして、それが職業教師の職務とイコールであると思い込んで、単純に物を言える人が多いのが、外野から見てても教師大変だなーと思う。意見をいう事が悪いのではなくて「たくさんの子供を教えた経験がないのになぜそんなに確信をもって、自分のわずかな経験が、学校教育にそのまま援用できると確信をもって言えるのかしら。その確信はどこから来るんですか」とか感じられる人が結構いるという話。まあどうでもいいですが。

*2:進学校の出身らしい竹内はもしかすると「優秀だから」という理由で西宮を任されたり、このようにたびたび面倒事を押し付けられたりしているのかもしれない。ただ勉強がちょっとできるだけに過ぎないかもしれないのに。全くの余談だが自分も以前勤めていた会社で「〇〇大だからこれぐらいできるだろ、頼むよ」みたいな感じで仕事を妙に振られることがあった。その会社にその大学の人間は珍しかったので、若干の嬉しさと理不尽さを感じたりもした。因みに私は佐藤大でも守村大でもない(ジョーク)。