映画『100日間生きたワニ』がとても丁寧な青春映画だった話。

twitterマンガ 「100日後に死ぬワニ」が完結後、かなりの炎上となった。

 その余波を受けてか映画『100日間生きたワニ』も「叩き」と言っていいぐらいの感想が飛び交っている。ある程度のバッシングは出るのかなとも思っていたがネットを見かけると「虚無」「最低の映画」「何もない」といった感想がかなり多数見られた。

 

でも、私は初日初回に観たのだけどそういう感想にはならなかった。

 

私がネットで見たたくさんの感想の中で気になることがあって

・カエルがウザいだけ(ワニの代わりにカエルが友達になって終わり)

・ラストが急に終わる(「え、これで終わり?」)

という意見が多かったように思えて

 

こんなに丁寧な作品なのにちょっともったいないなと思ったのでこの記事を書くことにした。

それと「青春映画」や「邦画」「文芸映画」というジャンルになじみがないと意味が分からないのかもしれないとも思った(作り手は「「邦画」を目指した」と言っている)。

「つまらなかった」と言うのは自由だけど、見方を変えることで楽しめる幅が広がったらそれは受け手にとっていいことなんじゃないかと思ったのと

本記事を読んだ若い人が、本作に限らないけど、楽しめるものが増えたとしたら、とても嬉しい。

 

以下で作品の内容にとてもたくさん触れています。

ネタバレを気にする方はご注意下さい。

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最初に書きたいことは次の2つだった。

①最低の駄作ではない

②非常に細かく編み込まれたストーリー(青春映画)だ

 

そう思っていたら品田遊さんがnoteで感想を書かれた。

この素晴らしい記事のおかげで「①最低の駄作ではない」は私が書かなくてもいいかなと思った。

だから、これから書くのは

②非常に細かく編み込まれたストーリー(青春映画)だ

についてのことだ。

 

原作と映画の違い

原作「100日後に死ぬワニ」は、毎日更新される形式で、当たり前の日常を過ごすワニがタイトルどおり100日後に死ぬ。

映画『100日間生きたワニ』は「ワニ君」というかけがえのない友人を喪ったネズミたちが悲しさを抱えつつ、それでもその先の人生を生きていく物語だ。

この時点で原作とは違っていて、いくつもの仕掛けが映画の作り手によって埋め込まれている。

 

構成は大まかに以下のようになっている。

ワニが死ぬ日(花見の日)

前編①ワニが死ぬまでの日々(最初の100日間)

ワニが死ぬ日(花見の日)

後編②ワニが死んでからの日々(次の100日間)

 

突然死ぬということ

「前編①ワニが死ぬまでの日々」は、原作と大体同じエピソードを使いながら2つのことが強調されている。

1つ目は「ワニが突然死ぬことで、楽しみにしていた予定がなくなってしまうこと」だ。これは原作でも繰り返し描かれているが、特にワニが死ぬ春の日以降の予定を、オリジナル要素も入れて幾度も積み重ねていく。私達が毎日そうするように、スケジュール帳に予定を記入するように、何度も。

例を挙げていくと「ラーメン屋に行って1000回は食べに通うと言う」「プロゲーマーを目指す」「映画「ドクターアニマル3」をセンパイと一緒に観に行く」「GWに実家に帰る」「恋人の写真を親に送る」といったところで、楽しみにしていたこと、するつもりだったことが全てなくなってしまう。

一方で、原作にあるけども、省略されているエピソードの多くは「時間をムダに過ごしちゃったこと」や「イライラしたりホッとしたワニ個人の出来事」だ。

だから、

これはワニの物語であると同時に「残されたネズミたちの物語」という性格が強くなっている。

 

残された人たちの描写

2つ目、これが映画と原作で大きく違うところだけど、ワニの「生前」と死後」の対比のためにエピソードを積んでいる。

前半のエピソードの多くは、後半になると一転「ワニの不在」を思い起こされる出来事になる。

 

 

前半の終わりにワニが死に、後半が始まる。

次のシーンでは、前編で一度も降っていなかった雨が降っている。ネズミは無言で信号待ちをしていて、二人で通ったラーメン屋が閉店していることが示される。新しいラーメン屋ができているが、ネズミはそのまま通り過ぎて家に帰る。

 

ラーメン屋に入ることはワニとの日々を思い出させることだから、ネズミは通り過ぎるしかないのだ。

 

帰宅したネズミの家のテレビでは「新学期のスタート」を明るく華々しく祝っているが、外は雨がやまず、ゴミ箱はいっぱいで、流し台にはカップラーメンの容器が重なっている。

ネズミの人生は進んでいないのだ。

誰も泣かないし、叫ばない。でも、こういう「寂しさ」「悲しさ」の表現をこの映画は選んでいる。

※原作ではワニとネズミとモグラの三人でラーメン屋に行く描写があるがカットされている。この映画でのラーメン屋は、ネズミとワニが親友であることを示す場所でもある。カエルが最初ラーメン屋に誘ってもネズミが断るのは「死んだ友を思い出したくない」ことに加えて「まだカエルは友人ではない」ことを示している。

「ウザいから避けられている」だけではない。

 

暗示される「喪失」

他の友人も同様に「ワニがいない日常」を過ごしているし、その悲しみは癒えていないことが示される。

センパイはバイト仲間(バイトちゃん・ヘビ)と映画に行って、「今度公開される「ドクターアニマル3」も一緒に行きませんか」と誘われるが「もう約束をしてしまったので」とやんわりと断る。ここまで書かなくてもいいと思うけど、一応言っておくとその相手は死んだワニ君だ。

そして、隣の席の客がポップコーンを落とすのを見かけて、かつてワニも同じように劇場でポップコーンを落として凹んでいたことを思い出していることがうかがえる。

(ちょっと寄り道の話)この映画はこういうときに回想シーンを挟まない。挟まないからこそ「ハッと気づく」映画的瞬間に満ちていると言えるし、読み取るのに失敗すると「何もない」「変な間がある」と言われてしまうのかもしれない。言えることは、「作り手は観客を信頼している」ということだ。(寄り道終わり)

 

モグラとイヌのカップルは、ワニがバイトしていたカフェの前で立ち止まるが、やはり無言で通り過ぎる。センパイを訪ねることもしない。

別のシーン、ネズミは路上でセンパイを見かけるが、そっと道を変えて会わないようにする。センパイもそれに気づいたようだが別に追いかけたりはしない。

 会ってしまえば、どうしてもワニを思い出す。思い出すには辛すぎるから声をかけられない。

 

ネズミとワニ

映画前半の冒頭(花見のシーンのあと時間はさかのぼる)

原作にあるように入院しているネズミをワニがお見舞いに来る。

ワニは「6時」のギャグをしてネズミが笑う。

このシーンが映画の冒頭にあるのは意図的な構成だ。

 

ここで印象づけられるのは、ワニが友人を笑顔にしようとする人だということだ。

だから、観客に一番最初に見せている。

ちなみに原作の1日目はテレビを見て笑うワニ(日常をだらっと生きている)で、作品の性質の違いがはっきり表れている。

原作は「死ぬとは夢にも思っていない若者=ワニが突然世を去るまでを追いかける物語」だ。

映画は、さらに「ネズミたちがそれでも前に進む物語」(「ワニの死ぬ前の100日+死んだ後の100日を静かに対比することで喪った哀しみを描き出している物語」)を加えている。

 

話を元に戻すと、この「6時」というギャグをネズミがあとでやるのは大変綺麗な構成だ。

今は「つまんなそうなネズミをワニが笑わせようとしてギャグをした」ことだけ覚えておいてほしいです。

 

(また余談)本作では「ゲーム」の存在も重要で非常に丹念な演出がされている。

この場面で、映画のネズミは独りで携帯ゲームをやっている。原作では上のようにスマホを触っていてゲームかどうかはわからないだ。変えなくてもよさそうなところを変えているときは、何か意図があることがある。

 

独りでゲームをやっているところに友人が来て笑顔になる。

原作では一人用ゲームをやっている場面がいくつかあるが、映画ではどの人物も、必ず「誰かと一緒に」ゲームを遊んでいる。

この映画における「ゲーム」は、コミュニケーションツールなのだ。

それと同時にワニとの思い出でもある。だから、この場面のネズミは独りで「なんか暇そうにゲームをしている(少なくとも熱中はしてない)」のでなければいけない。

 

ネズミやモグラたちも、ワニの死後に集まってゲームをすることはないのは、そういう意味なのだ。

もっと言うとエンドロールでワニの両親は二人でゲームをやっている。これは死んだワニのことをわかりたくてゲームを始めたのではなかったか。そして案外楽しんでいることが描かれている。両親の時間も進んでいる。(余談終わり)

カエルが来た

そんな頃、新しいキャラクター「カエル」がやってくる。

ネットの感想を見ていくと「カエルがウザい」という意見が結構多い。

やや同情的な意見でも「カエルにも事情がある」という言い方が見られた。

でも、それだけではない。「ウザいやつにも事情があって、時間が経って友人になった」だけの話ではなくて、作り手は丹念に物語を構成している。

確かにカエルは初対面の相手にも馴れ馴れしく近寄ってくるし、登場人物も好意的に接するよりは戸惑いを感じている様子が描かれている。

でも、「100日後に死ぬワニ」の登場人物、ワニやネズミたちは「ウザいから」という理由で相手を雑に扱うような人たちだろうか。

 

 

カエル本人は気づいていないが、登場人物たちが冷淡な扱いをするにも理由がある。

カエルと一緒にいるとワニを思い出してしまうことがひとつ(イヌが初対面でカエルのことをワニと見間違えている)。

そして、カエルのアクションは全てワニを思い出させる事に繫がってしまっているからだ。

ネズミにはバイクでツーリングに誘う。

ラーメンを一緒に食べに行こうとも言う。

モグラとイヌにはみんなでゲームをしようと提案している。

これは全部映画の前半でワニと友人たちがやっていたことだ。

ワニを思い出すようなことはできないのだ*1

 

その一方で、拒絶され続けるカエルは「ノリ違いますかね?」と新しい友人ができないことに悩んでいる。

でも、全部カエルが悪いわけでもないし、全部ネズミたちが悪いわけでもない。

 

 

 物語が進むと、カエルも友人と何かあって、引っ越して新しい街に来たことが彼の口から語られる(「去年ダチが……」という台詞)。

「死んだ」とは明言されていないので、バイクで大怪我したり、大喧嘩して絶交したのかもしれないし、ネズミもそこに安易に立ち入ったりはしない。死んだかどうかは重要ではなくて「喪った」事実は変わらない。

 

だけど、ネズミは「ワニを喪った自分たちの姿」を泣くカエルに見たのか、親友のワニにしていたように「軽くパンチをして」、ツーリングに誘う。カエルに肩を触られただけで「えっ」という顔をしていたあのネズミが。

彼は他人と関わろうとし始めている。

それは「なんとなく」でもないし、「ワニの代わり」でもない。

 

ネズミが顔を上げる

ワニと一緒に行った山で夕焼けを見せるシーンは本作のクライマックスだ。

ミカンを渡すネズミ(前編ではワニがネズミに渡している)。

食べながらネズミは言う。「101点」(前編ではワニが「102点」と言う)。

カエルが「何点満点だよ」とツッコむ。

初めてカエルの顔をまっすぐ見るネズミ。

これは想像だけど、この瞬間ネズミは「ワニが自分を笑顔にしてくれた存在」であることに気づいたのではないか。

 

目が合ってホッとしたのか泣き出すカエルに「6時」のギャグを見せるネズミ。

ウケて笑顔を見せるカエル。

 

前編と同じようなことをしているが、ワニの役割をネズミが務め、カエルはあの時のネズミの役割を担っている。

「友を笑顔にする」役目を、ネズミが引き継いだのだ。

ここで初めてネズミはカエルを友として認めたと言えるだろう。

唐突でもないし、ワニの代わりでもない。

 

それぞれの人生

センパイは、ワニと約束していた映画「ドクターアニマル3」を観に行くことで区切りをつけるし、モグラとイヌは結婚を決意することで前に進む。

ワニの死で止まっていた時間がまた動き出している。

 

(最後の余談)

今まで書いてきたようにこの映画は「ワニとネズミ」が主軸になる物語だ。でも、他の人物に焦点を当てても、びっくりするくらい丁寧に描かれている。

例えばモグラ。彼は物語の中で「就職して」「結婚する」けども、彼の人生も丹念に描かれている。前半でワニたちとバスケットボールのフリースローをする場面、モグラだけがボールを取ってくれたスーツのサラリーマンを見て何事か思っている(ここに「間」がある)。

そして、次の展開で就職して、イヌと付き合い始める。ワニ、ネズミ、モグラの中でいちばん早く次に進んでいるのがモグラだ。

ワニの死後、公園でバスケをする子供たちを観ている。ボールをとって投げ返してあげるのはモグラだ。ここでも前半(ボールをとってもらう)と後半(ボールをとってあげる)が対比されている。モグラは大人になっているが、ワニを喪った哀しみは和らぐわけではない。かと思うと隣で別のサラリーマンが電話で仕事について汚い言葉で罵っている。淡々とマイナスの感情を積み重ねている。

場面が変わって、上で書いたように、モグラとイヌが喫茶店の前を少し立ち止まった後通り過ぎる。カエルが初めてリサイクルショップに来た時、イヌはカエルの後ろ姿にワニを思い出しているし、そこに来たモグラとイヌはケンカでもしたのか、少しギクシャクしている。それから、これも上に書いたけどカエルにゲームをしようと誘われるが断ってしまう。こうしてみるとカエルの誘いを断ったのは、「カエルがウザいだけ」ではないことがモグラ側からもうかがえる。

映画では詳細に描かれないが、モグラとイヌはなんとかして二人の関係を繋いで、結婚することになる。ネズミとは違うかたちで、前に進もうとしている。(最後の余談終わり)

 

ネズミはグループLINEに「また集まろう」と言う。

花見の日に、ワニの死で止まったタイムラインがまた動き始める。

 

ラストシーン~それでも生きていく~

桜もとっくに散り緑が眩しくなった百景坂をみんなが歩いていく。

ネズミはカエルの後ろ姿にワニを思い出す(今まで見てきたようにワニ=カエルではない)。

ネズミは写真を撮ってグループLINEに流す。エンドロール後、バイクに乗ることができなくなっていたネズミが走り出す。バイクが走ると、ワニからもらった「タコ」のキーホルダーが揺れる。

 

終わりに

映画「100日間生きたワニ」は、ふつうの若者ワニが突然死ぬまでと、ワニを喪ったあとも生きていく人たちの物語だ。

 

60分という短い時間の中で、死ぬまでの姿、死んでからの対比を使って、丁寧に丁寧に描いた作品だ。10年先、何も知らない人が観たら「なんかよかった」と言ってもらえるような佳品だと思う。

 

本作にとっての不幸は「叩きたい人がいる作品だった」ことと、「客層の違い」ではなかったろうか。自分はそれなりに広く映画を観ているつもりなので本作の仕掛けに気づくことができたが、もしかするとそういう見方を全く知らない若い人は、炎上した記憶で怒りが先に立ったかもしれない。

それは作り手と受け手のどちらにとっても不幸なのではないかと思い、苦手な文章を書いてみた。

 

繰り返しになるけども

「つまらなかった」と言うのは自由だけど、見方を変えることで楽しめる幅が広がったらそれは受け手にとっていいことなんじゃないかと思ったのと

本記事を読んだ若い人が、本作に限らないけど、楽しめるものが増えたとしたら、とても嬉しい。

 

*1:ワニと接点のないバイトちゃんは普通に交際拒否しているが、それはカエルの肩に力が入りすぎていて性急で、受け入れられなかったのかも。バイトちゃんがいることは、この世界はワニと仲間だけで作られてることでもないということだ。