※映画「この世界の片隅に」のネタバレ・根幹に触れています。気になる方はご注意お願いいたします。
劇中に「あいすくりいむ」が出てくる場面がある。
朝日町に迷い込んだすずさんが遊女リンさんと出会い、甘いものの絵を頼まれるが、すずさんには「あいすくりいむ」がなんなのか分からない。
ここには物語の秘密と矛盾がある。
最初の疑問
リンさんはどこであいすくりいむを食べたか。
作品中に、はっきりと描かれている。
すずさんの失われた右手が紅を使って描くシーンでは、少女の頃に出会った「ざしきわらし」のその後が語られ、それがのちのリンさんであることが示される。
矛盾
だがこれは不可能なのだ。
リンさんが遊女の仲介をする老女からあいすくりいむを食べさせてもらうこの会場は呉市主催の「国防と産業大博覧会」だ。
呉市のHPから。
会期は昭和10年の3月27日~5月10日だ。
するとリンさんがあいすくりいむを食べたのはこの期間のいずれかなのか?
それが難しい。なぜか。
すずさんとリンさん(当時は座敷わらしだと思われていた)が出会ったのは10年8月の草津。リンさんも呉の出ではなく広島の草津などを転々としてその後、呉に行き遊女になった。
無理やり考えるとこうなる。
10年3月以前 奉公先を逃げ出し広島市周辺を転々とする
10年3月~5月 呉で遊女になる前にあいすくりいむを食べる
10年8月 草津に戻ってすずさんとすいかを食べる
その後 呉に戻って遊女になる
ちょっと難しい。
解釈
私は矛盾点を突くよりも、何とか整合性をつけたり、説明のつく可能性を探る方が好きだ。そのほうが世界が豊かになるし、何よりあれこれ考えるのは実に楽しい。だから考証ミスなんて言わないで考えを進めていきたい。
ここで注意しないといけないのは先ほど書いたとおり、このタッチの違う(口紅で描かれているという)シーンは、失われた右手が描いた物語だ。
つまり、これは幻想か現実かの境目が曖昧だ。すずさんの見聞きした現実(リンさんは広島から呉にきた。あいすくりいむを食べた。博覧会は家に図録でもあったのかもしれない)から構成することもできる。
現実にはあり得ない事柄を並べることで、これは「誰かの描いた夢かもしれませんよ」というメッセージを示したのかもしれない。
誰かの見た夢
じゃけえあの日のことも昼間見た夢だったに違いない
「国防と産業博覧会」で径子さんとご主人がデートするもう一方で、あいすくりいむを食べるリンさんは、すずさんの右手だけが描けた美しい夢だったのかもしれない。
空想か現実かわからないのはここだけではない。
10年8月にもリンさんが森田のおばあちゃんに着物を繕ってもらう場面があるが、コマの枠線が他のコマよりも細くゆがみを持っていて現実かどうかはっきりしない表現をしている。
すずさんは少し寝ぼけたままリンさんに声をかけて、戻ってきたらもういなかった。ここまでが実際にあったことではなかったか。
映画では
また映画ではクラウドファンディングのエンドロールで、リンさんの少女時代が、原作を踏襲して口紅で描かれる。あいすくりいむの場面も着物の仕立ての場面もある。
原作と同じように幻想であるという含みが残されている。*1
まとめると。
・リンさんがあいすくりいむを食べたことは事実だろう(説明その他反応などから)。
・だがそれが「国防と産業博覧会」では時系列が合わない(呉に来て街のカフェーで食べた等)。
・リンさんが呉に来たのは10年8月以降。
・博覧会で食べた場面は右手の描いた想像だったかもしれない。
・すずさんとリンさんは少女時代、草津の家で一瞬出会ったのは確実である。
運命の激動の中で、ありえたかもしれない可能性のひとつをあいすくりいむは象徴していたのかもしれない。
またはすずさんの、読者の見ていたかった幸せな夢だったのかもしれない。
本編より
あ、呉に来てた!
草津でおばあちゃんとすずさんとリンさんが一緒にいる!
あーもうわかんないです!
おしまい!
(※宮島に行くと見られます)
*1:余談だが、16年の10月末、映画公開直前に監督に直接お伺いする機会があった。時系列の矛盾を質問すると「そう、あわないんだよ!」と流石にご存じだった。映画では、場面として適当なカフェで食べたことにすることもできただろう。博覧会を映したいなら分けて出すこともできたはずだ。映画がああいう表現になったということは、作り手もそのように、含みを持たせて考えているということではないだろうか。