ワンダーランドの栩野幸知~「この世界の片隅に」「この空の花~長岡花火物語」
※『この世界の片隅に』と「この空の花~長岡花火物語」の内容に触れています
男性「ほう、お嬢さん絵が達者じゃねえ」
女性「はあ、子供達が喜びますけえ、こうやって描いとります」
ちょっと長い前置き
あるとき、あるところでこんな議論があった。
映画『この世界の片隅に』の話
憲兵役で出た役者が、パーティで憲兵の扮装をしたことに対する批判とそれに対する応答。
戦争、過去の出来事に対する議論はものすごくものすごく多くの切り口があって到底ここでは書ききれない。ただ「〇〇は△△だった」と単純に言えないことは多くの歴史が証明している。
監督もこの件について意見を述べられているがそれも議論が長くなるのでここではふれない。
では『この世界の片隅に』の監督、片渕須直は戦争をどう捉えているか?
片渕須直監督の戦争について語ったものの中で、最も私の心に残ったのは以下のツイート。
(質問の続き)
— an_shida (@an_shida) 2017年6月23日
戦争で変わった服が「今と同じよう」に戻る。いつそれが戻るか調べることで、私たちの生きている世界との繋がりを再認識したし、自分なりの盛り込みどころです。アヌシーでクライマックスはどこか?と質問を受けて「エンドロールです」と。(続く)#この世界の片隅に
(回答の続きの続き)
— an_shida (@an_shida) 2017年6月23日
「クライマックスはエンドロール、女性たちがスカートを履けるようになるエンドロールである」と。#この世界の片隅に
これはどういうことか。
平時なら誰でも当たり前にできることができなくなる。好きな服を自由に着ることができて、絵を描きたい人も自由にできる。
そんな「普通」ができなくなるのが戦争であり、『この世界の片隅に』は戦争が始まって終わるまでの話でもある。
映画のクライマックスはエンドロール。今の視点から見ると当たり前の「女性がスカートを履いて畑に立っている場面」だと。
この考え方に沿うと「いいおじさん」だったはずの男性も戦争という事件のせいで「憲兵さん」になってしまうともいえる。一市民や憲兵になった男性に「戦争責任」があるかどうかということもここでは議論しない。
はっきり言えるのは「戦争で変わってしまったもの」があるということだけだ。
男性「ほう、お嬢さん絵が達者じゃねえ」
女性「はあ、子供達が喜びますけえ、こうやって描いとります」
これもまた選ばれなかった未来だ。戦争が「海岸線と軍艦を描くスパイ行為の女と取り締まる憲兵」を生み出したともいえる。
映画の話
それで「この世界の片隅に」 「この空の花~長岡花火物語」が東京の早稲田松竹という名画座で上映されていた。「この空の花」は公開時に話題になり、その衝撃は次の記事がわかりやすい。
2つの映画は全く似ていないようでよく似ている。似ているようで映画の見た目は全然違う。だがその本質はとても近い。
戦争と現在の私たちを繋げたい
どちらも、戦争を題材に異色の切り口で表現した映画だが
『この世界』は「タイムマシンに乗ってあの時代に行くような」
『この空』は「現代に無理やりにでも力技で戦争を重ね合わせる」
そんなアプローチだ。
『この世界の片隅に』の一場面。野草や魚、台所用品の数々、これらはスタッフが調べてそれを画にしている。
今と違うようで同じ。映画全体を通して可能な限り再現しようとしている。
それは戦争といまが地続きであることを見せたかった、たからこそ本当にあったものを探して描き、本当の街並みを再現する必要があった。
「考証がすごい」のでは断じてない。そう謳う作品はいくらでもある。
「観客をタイムマシンに乗っていると錯覚させるためには、全て調べあげなくてはならなかった」が正しい。
一方「この空の花」。どう見ても合成の炎、あまりに安っぽい。とてもタイムマシンに乗る様相ではない。
だがそれもまた戦争を現在に甦らせるためのひとつの力強い表現だ。
この一見安っぽい画面は映画のなかで次の美しい画面と地続きになる。
地続きになるけどもとても言葉で表現できるものではない。その手法は大林宣彦だけのものだ。是非確かめてほしい。きっと今まであなたが観た映画のどれにも似ていないから。
「まだ、戦争には間に合いますか?」と問いかけた「この空の花~長岡花火物語」
「間違っていたなら教えてください 今のうちに」とつぶやいた『この世界の片隅に』
是非多くの人に観てほしい、そしてできれば両方を観てほしい。戦争の悲惨さをストレートに訴えるのとはまた違うかたちで闘いぬいた記録だ。
終わりに。栩野幸知さんのこと~2つの映画を繋ぐ
この両方に出ているのが栩野幸知さん。
『この世界』では先ほどの憲兵さんとして声の芝居をしている。
「この空の花」には生身の役者として出演しているが、役どころも違うし実写とアニメだから気づかない人も多いだろう。私は初見時には気づいていなかったし、先日早稲田松竹で「この空の花」を見るまで、彼が出ていることにも気づいていなかった。
ここからは全くの自分の空想を描く。
「この空の花」で栩野さんの役どころは「先生」だ。戦争で赤ちゃんを喪ったお母さんがその体験を子供達に語るときに、紹介をする先生の役だ。栩野さん演ずる先生はお話と子供達をとても優しいまなざしで見つめている。
その時、私の中で二つの映画が強烈に結びついた。
戦時中、広島の呉で憲兵さんとして威張り散らしていた姿と、戦後長岡で優しい先生として映画の中にいた姿が重なった。
『この世界』で絵を取りあげられた女性の自由が取り戻されるのは、エンドロールでスカートを履いて、その場所で船を見つめても誰にも何も言われない当たり前の風景として、表現されていた。自由と平和が静かにそこに在った。
そして「憲兵さん」の元々の姿までもが、広島から遠く離れた長岡を舞台とした「この空の花」によって取り戻されたように感じた。
憲兵から先生へ、あるいはやさしいおじさんも意地悪な憲兵になってしまう、平時と戦争の対比。
「この世界」の原作でも映画でも憲兵のその後は描かれないからこそ、「この空の花」に彼が出演していることはより大きい意味を持っていると言えるのではないか。
この二つの映画はアプローチこそ違うが戦争を真正面から捉えた双子だと感じた。
ただ、観てほしい。体験してほしい。それが筆者の願いです*1。
男性「ほう、お嬢さん絵が達者じゃねえ」
女性「はあ、子供達が喜びますけえ、こうやって描いとります」