「この世界の片隅に」の序盤、昭和18年12月。北條周作さん(と父円太郎さん)は、浦野すずさんを探しに呉から広島の江波までやってくる。
この場面の愉快さ、面白さについて、ちょっと書いてみたい。
※作品の内容、展開についてふれています。
大まかな流れはこうなっている。
1.草津に遊びに来ていたすずさんは電話で「嫁に欲しい」という男性が来ていると知らされる。
2.すずさんは家の外から周作さんの顔を窺うだけで会う気になれず、江波山に登る。
3.道に迷った周作さん親子と山で偶然出会ってしまう
4.すずさんが電停(駅)まで案内する
実はこれは相当おかしな場面だ。最初読んだときには全然わからなかったが、読み返すうちに「これはギャグなのか」と気づき、現地へ行ってみてさらによくわかったので以下に説明することにした。
地理説明
位置関係はこう。
江波は広島市の南にあり、周作さんたちは東(地図の右)の呉から来ている。
周作さんたちはある程度、浦野家の場所が分かっているだろうから広島駅の隣、横川駅から広電(路面電車)で江波まで来て、そこからは徒歩のはずだ。
ちなみにお嫁入りするときも横川駅から乗っているが、スケッチをして帰りそびれるときは広島駅に向かっている。
すずさんが原爆投下前の広島を見るのはこの日が最後になるから「さようなら広島」は在りし日の広島への別れという深い余韻をもったシーンながら、ここでオチをつけて外しているからややこしい。
迷走
周作さんたちは浦野家を出てから北の電停に行くはずが、なぜかまわりまわって反対側の江波山まできて、しかもわざわざ山に登っている。
地図を拡大してみる。江波電停と江波山の位置関係。
(緑の○があるところが大体すずさんの家。青矢印のように帰るところ、赤線のように迷い、すずさんの案内を受けてピンク矢印のように電停まで行ったのではないか。)
映画でも描かれているが、江波は住居が並ぶ街並みで、そのへんの誰かに訊いてもいいはず(ちなみに山文という著名な料亭があったから、江波の人は道を尋ねられるのも慣れていただろう)。
三方が川、海に囲まれているので位置の把握もしやすく、要は海に出たら間違ってるのだから戻ればいい。
高いことは高いけどこれにわざわざ登って電停を探すかなあ?という感じ。哲さんもすずさんも一人になりたいときにこの山に登っているぐらいで「ちょっと眺めのよい所から…」という感じではない。
※現地訪問時は「こりゃあ珍奇じゃ。こりゃあ珍奇じゃ」と心に思いながら汗を流していた。
山に登ると確かに下は見えるが、登るより人に訊いた方が早いだろうという印象は変わらない。東京で迷子になって東京タワーに登るようなものだろうか。
でも北條親子のユーモラスなやりとりを考えてしまう。
周作さん 「迷った、どうしよう」
円太郎さん「…あの山に登って上から見たらわかるかもしれん」
周作さん 「さすが父ちゃんじゃ!よし登ろう」
なんて話していたらと想像するだけでなんともおかしい。*1
大事なのは、北條さんたちにも原因があるのかもしれない…。
着物の示すもの
すずさんが江波山の上で着物を羽織るシーンは「お嫁入りすること=大人になることを受け入れていない」ということだ。嫁入りのために祖母から貰った着物を身に着けて夫になる人に会うのではなく、頭からかぶってひとり山の上にいる。
拒否というよりはモラトリアムのような保留の気持ちだったかもしれない。
映画ではさらに「うちは大人になるらしい」という独白を、草津からの帰り道で呟いていて、そのことがよりはっきりと強調されている。
だがすずさんと周作さんは出会ってしまう。
この沈黙「……」の長さ。北條親子も無表情で緊張感をかきたてる。
すずさんにとっては、猶予を与えたはずの現実が追いかけてきたようなものだから、切迫したシーンだ。草津で祖母に「新しい傘」の話を聞かされたときのように、大人になることについて言いようのない怖れを感じているのかもしれない。
だがご存知のとおり、そういう「怖い」展開にはならない。
すずさんのズッコケは「あんたを嫁にもらいに来たぞ」と言われるかと思いきや単に道を尋ねられただけだったこと(しかも自分に気づいていない)と「電停探して山に登ったのか」という呆れのダブルミーニングだ。
超面白い(そしてわかりにくい)。
周作さんがすずさんに再会しても気づいていないところもとぼけている。*2
さらにもっと面白いのは、すずさんがずっと着物をかぶっていることだ。
正体を気づかれてはならない(家に入らず山に逃げていたからやましい気持ちがある)が、道案内をしないというわけにもいかず(お人よしなのだ)、「珍奇な女」を演じ続けなければならない。
映画ではこの道案内が大きく引きのばされる。
引っ込みつかなくなって着物をかぶったまま江波の街中を歩き、近所の人に目撃されるすずさんはなんというコメディだろうか(「浦野さん家のすずさんは何やってるの?」と不思議そうな江波の人の表情!)。絶対町内のうわさになっている。
後日の様子を想像するだけでひとつのお話になりそうだ(すずさんの奇行が江波町内で話題になる→鬼いちゃんに怒られる→両親も気づいて訳を問いただす→気まずくて答えられない→鬼いちゃんに怒られる→すみさんには本当のことを告白→びっくりしてすみさんが叫ぶ→鬼いちゃんに怒られる)。
マンガが既にぎゅうぎゅうに仕掛けを詰め込んでいるところにさらにぎゅうぎゅうに押し込めている映画の密度。こんな箇所がいくつもいくつもあって見る度に発見がある。
気になる人はぜひもう一回劇場で見るといいと思います。
おしまい!
補足
※タイトルはアメリカの小説家コニー・ウィリスの作品『犬は勘定に入れません- あるいは、消えたヴィクトリア朝花瓶の謎』のパロディです。わかりにくいですね。最初「すずは間諜に…」と呼び捨てだったのですがさんづけに直しました。すずさんは間諜というのは、言わずもがなですが憲兵さんに見つかった事件からの引用です。
片渕監督もコニー・ウィリスについては度々言及されています。「現代人の我々がタイムスリップして当時を体験する」というコンセプトの示唆を作品から受けていることが伺えます。
from:katabuchi_sunao 航時史学生 - Twitter Search
おまけ。
江波から見た海。三方が川と海に囲まれていて向こうには島が見える。
大体すずさん家の近く。大体。
と思いきや続編があるのだった。