冬コミで「村上修一郎演出修正集」を読んだ。
衝撃を受けた。
村上さんことunkoerさんは自分とは天と地ほどの作画認識能力を有していて、私の問題意識などすっ飛ばしてアニメスタイルの仕事をしていると思っていた。
だがこの同人誌を読んで、びっくりするぐらい「ああこれは私の為の本だ」と思ってしまった。
問題意識に共通するものがあった。 アプローチが好ましかった。
アニメ作りの工程、作業が具体的にどのように仕上がりに影響を与えているのか。
私もそれを知りたかった。
作画ファンという人達がいる。アニメを観てすぐ誰の作画かわかって、その優劣をぱぱっと判断できる、自分から見たら神様のような人たちだ。
私はアニメの記事をよく書くが、アニメの現場がわからないという気持ちは消えることがない。
たとえばこの画像を。
魔法つかいプリキュア!』22話「芽生える新たな伝説!キュアフェリーチェ誕生!」
脚本:村山功 コンテ:平山美穂 演出:岩井隆央
からの一コマ。
ここで少女(みらいとリコ)の顔には影が入っている。で、これは誰が入れたものなのか?
私にはわからない。
まず
まず脚本段階で「みらいたちには木の影が落ちている」とでもト書きがあればその時点からのものとなる。
その後の場面との対比があるから、暗い画面と明るい画面の対比を脚本段階から想定していてもおかしくはないと思う。
それはさておき、次にコンテの段階でそういう指示があったかもしれない。
また作画打ち合わせ(作打ち)の段階で細かくそういう指示があったかもしれない。
ここまでは指示の段階の話だけど、影が大切というわけではなく、
原画を担当したアニメーターがカット内を推察して影を入れたかもしれない、演出の岩井さんが最後に影を入れたのかもしれない。
近年だといきなりデジタルで最後に入れることも可能なのかもしれない。
通りがかった東堂いづみさんが「そこ影!忘れちゃダメなんだからね!」と言ったかもしれない。
そういうことを考えるときになんとかいうホルン奏者の言葉を思い出す。
ホルンが巧く吹くと「指揮者はよい指揮をした」と言われます。
ホルンが音を外すと「ホルンが失敗した」と言われます。
これはどういうことでしょうか?(笑)
私が言いたいのは作画についてふれてはならないということでは断じてない。
ただ集団作業であるアニメについて「誰の仕事」かということを軽々に決めて良いんかねえということである。そもそものディレクションがしゃんとしてれば、並みの人間でも水準以上の仕事ができるし、その逆もあるだろうということだ。
ただひとつの仕事の出来栄えを判断するにあたって、外の人が簡単に下すことには抵抗がある。
私が仕事で他者を評価するときは、結果だけを見ればいいということはなくて、全体的に見ないといけない。その業務は難しかったか、期間は十分だったか、本人の意欲や適性はどうだったか、どこまでが本人の独創なのか。
そこをすっ飛ばして「あの人すごいね」と言われても自分としては「いやいやあれは引き継ぎがよくて、それを受けて彼女は真面目に普通ににやってたんだと思うよ」と言うだけだ。またきちんと評価しておかないと、いざというときの仕事を振ることができない。
アニメに戻る。
少なくとも私は外部の人間だから「ここのシーンがよかった」「このシーンはこういう意図ではないか?」という話から始まってそれが誰の仕事かというところまで踏み込むのにはかなり慎重になっている。
できるだけ正確にものを言いたいと思っている。
アニメーターの話でわりとしょっちゅう頻繁に聞くのは「作画wikiに載ってなくても巧い人はいる」という話である。半可通が幅を利かして、本質に近づけなくてもいいのか?
優越感ゲームをしたいだけの承認欲求だけの存在だとしても私はそれを認めよう。
市場なき業界には一切の将来がないのだ。大ヒットが2000枚のクラシック業界のように。間違っていようが話題にされることこそが花なのだ。
アニメに関わる人よ、幸せであれ。アニメを好きな若者よ、世界は君が思うよりもずっと優しい、やり直しのきく世界だ。どうかそのアニメを愛する気持ちを持ったまま人生を生きてくれ。
――などと意味不明の供述をしており……(了)