ファンから見た、映画「この世界の片隅に」ができるまで~2008年から2012年まで

この記事は映画「この世界の片隅に」ができるまで、待ち続けたファンの記録です。

2016年現在のように情報が多くなかったとき、あるファンがこんな風に考えていたんだと思って読んでいただければ幸いです。

 

ついに『この世界の片隅に』が11月12日に劇場公開される。

待ちに待った、ようやくという気持ちばかりだ。

それで思い立って自分のツイートを読み返していた。

すると自分でも案外何を言ったか忘れている。映画作りが平坦な道でなかったせいもあって、自分もずっと傍らに寄り添っているわけではなかった。

先に言っておくと、片渕監督に常に寄り添っているわけではなかった。ある程度の距離を置きつつ待ち続けた記録だ。なぜそうしたかといえば、そうしないと心が持たないと思ったからで、つまりはそれくらい長く、下りてくる情報が少なかった。

10年近い時間をこの作品とつきあってきた歴史がちょっと面白かったのでつぶやきを引用しつつ、自分なりに振り返ってみたいと思う。

できれば最近『この世界の片隅に』を知った方にも、いちファンの時間の流れを少しでも感じてもらえたら嬉しい。

 

1.出会い 前置き Twitter以前

 

原作との出会いは2008年だったと思う。ネットで評判になっていたか、同じこうの史代の「夕凪の街 桜の国」からの流れで読んでいたか、覚えていない。

 

余談だが私のゼロ年代は本当に生きるのが辛かったので今でも記憶が飛び飛びになっている。楽しいこともいっぱいあったので、難しいけど、とにかくその時生きる私の心の在り方が、しんどかった。そんなとき、こうの史代の優しくユーモラスな作風は心にすっと入ってきた。

 

ともあれ茨城の小さい小さいマンガ喫茶で読んだのを覚えている。まだ下巻が出ていなかった。下巻で起こることを何も知らずに楽しく読んでいた。思えば理想的なぐらい幸せな出会い方だったと思う。当時「さんさん録」と同じように日常ものとして読んでいた。

 

当時、広島がどんな街かも知らなかった。

それからほどなくして下巻を読んだ。

比喩でなく本当に熱が出た。数日頭が重くなり、マンガのもつ質量に圧されていた。

ただ、今にして思うと作品のことを全く理解できていなかったと思う。ストーリーにしても、その仕掛けにしても、その魂のありようにしても、そして作品がそれからたどる未来についても。そしてこれだけ長くつきあうことになるとも全く思わなかった。

 

ここで片渕須直監督の話に。

2009年11月21日 『マイマイ新子と千年の魔法』を観る。初日初回だった。

埼玉県三郷市のMOVIX三郷でお客は僕を入れて4人だった。

初見時、上映中に清原元輔が船で防府にたどり着くシーンで「この映画はいったい誰のために作られているのだろう」といぶかしく思ったのを覚えている。チェロとコントラバスの低弦が綺麗に録れているので感銘を受けた。

だがその時はそれで終わりで、心に少し残りつつも再度観ようという気にはならなかった。

 

そのあとネットでたまごまごさんとアニメスタイルが熱く推していて、背中を押される気持ちで再見したところ、猛烈に心を奪われた。

自分は元来ちょっと鈍いので初見時に「ん?ようわからん」くらいの作品が歴史に残ることが多い。

マイマイ新子』もそうだった。結果として2010年は『新子』を追いかけ続けた一年でもあった。

ようやくTwitter時代に入る。

自分のツイート。よく見ると『新子』から『この世界』までずっと応援されていて、今でもよくお見かけする千坂さんと、もうお一方NORANEKO-mamaさんがリツイートしてくださっていて、こんなところにも歴史を感じた。

 「私の家では」はDVDが出た喜びを書いているが、これも公開当時からすると夢のようなことだった。

上映に通い続けたのも「この灯を消すともう文芸坐などのオールナイトでしか観れなくなるかもしれない」という危機意識があったかもしれない。

 

twitterを始めたのが2010年なので自分の記録も2011年ぐらいからはやっとかたちになっている。それでも2010年は「新子」の余韻に浸りつつも、日々をなんとなく生きていた。こうの作品も出るごとに少しずつ読んでいた。

 

2.2011年 ~ なんかどうも作ってるらしいよ

2011年6月30日

アニメスタイルの片渕監督の連載で、こうの史代先生が『名犬ラッシー』を見ていた話が出てきて、しかも最近お知り合いになられたということを受けての自分のツイート。

実はこの時点で、片渕監督が『この世界』を撮るということは、ほぼ明らかだった。

こうの先生のファンが集う掲示板でそれらしい話題が出ていたが正式な発表ではなかった。もっと前に企画が動いていることが書いてあるブログ記事なんかもあった。

とにかくその時の喜びといったらなかった。好きな 作品を好きな人が作ってくれる、理想の組み合わせなんてそうそうない。

 

それから1年間は自分のtwitterでは記述が見られない。発表になったがまだ動きがなかったのだと思う。

これもまた我慢の1年だった。よく考えると片渕監督のtwitterをどうもこの時点で知らなかったようだ。

 

といっても未発表なので明確な情報は、探してもそれほどたくさんは出てこなかったろうと思う。 

3.2012年 遂に製作発表。

2012年2月19日

どうもやっぱり作ってるらしいが全然発表もなく東京で行われた「こうの史代展」にも全くアニメの話題はなし。チラシはもちろんない。

 青の印象が強かった。明け方の暗闇の青。白黒の印刷ではおおむね黒になるところが原画やカラーでは青を志向していることが 印象的だった。これ以後私にはこうの作品の黒は、時折深い青に見えている。

2012年7月30日 『この世界』アニメ化への喜びを、監督に直接ぶつける日が来た!…はずだった。

アニメスタイル文芸坐で『マイマイ新子』レイトショーをやったとき片渕監督がゲスト。ついに来たか、の感。

ここでどーんと発表するんだ!と確信していた。久しぶりの『新子』上映とトークショーだからこれは間違いないと興奮気味だった。

そんな風に思い込んでいたので「この世界の片隅に」の単行本を持っていって、感謝の気持ちをお伝えして、ついでにサインでも頂こうかと考えていたが

なんと予想外にアニメ化の発表は出なかった。

トークそのものは楽しんだものの、「まだなのか」という気持ちが残ったのを覚えている。

それでも自分は諦めきれず、ホールに座っていらした監督を見つけると。

図々しくも「監督の新作が出るかと思って、コミックスを持ってきたんですが…」と話しかけると、監督は私のカバンの中を覗き込んで、『この世界』の表紙を確認すると「プイッ」と知らんぷりをされたのだった。

突然の可愛らしいしぐさに、思わず笑ってしまったが、気を取り直して「心待ちに、心待ちにしております」とお伝えして映画館を出た。確か監督は黙って私に頭を下げてくだすったように覚えている。

とにかく「これは間違いない、製作中なんだ」と一安心した。誰にも言えない。それでも大きな前進だ。

「まあ1年も一本の映画を応援したんだから、きっとなんとかなるだろう」と比較的楽観的に池袋をてくてく歩いたのでした。

それから延々てくてくと、広島も呉もてくてくすることになるとは夢にも思わなかった。

2012年8月17日 正式に製作発表!(自分が知るのは19日)

なんかよく覚えてないけどネットニュースで情報が出た。おれよあれよという間に広まっていって、驚いた。

この記事を

読み返してたら17日のツイートとあるので今さら発掘。 発信地はこれだった。

 ことの経緯は下の連載に書いてある。書いてあるが今日初めて認識しました。確かに当時も連載を読んだが今回やっと経緯の意味が分かった。ネットすごい!

私は私で周回遅れで興奮している。

 すごい幸せそうだということはわかる。

 なんか宗教体験みたいになっているが、当時それくらい幸せでした。

そして幸せだったわりには、それ以上全然情報が出てこなくて、心の隅にずっとあるような感覚だった。

正直、しばらく待ってればできるだろうという感じだった。その時はそう思っていた。

というわけで私の2012年編は終了。続きます。

 

「この世界の片隅に」と歩いてきた私~2013年 - an-shidaの日記

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おまけ 製作発表後の自分のツイート。

 2012年時点で、防府の空の向こう側に、北條の家の人たちが生きているのだ!」と完璧に作品の趣旨を理解していて、しかも自分ですっかり忘れている。

大体こんな感じのうっかり具合で公開までの時が流れていきます。