Go!プリンセスプリキュア1話を初めて見た本放送時、つよく衝撃を受けた。
それは1年にわたる物語へとやさしく導くだけでなく、おそらく長い間ともに歩むスタッフへも向けて、美しく一本の線を引いた、そんな第1話だった。
アニメに限らず1話は作品の導入、引きとしてシリーズの顔になるのは間違いない。
プリキュアシリーズは毎年新シリーズがスタートして、そのたびに様々な1話が作られる。そこには作り手が何を大事にしたいか、1話をどう捉えているかが見えるときがある。
プリキュアシリーズの1話はおおまかに言うと「主人公が出てきて敵に出くわしてなんだかよくわからないけど変身する」ということだ。敵を倒すまでいくか、のちにプリキュアになる仲間たちと出会うか、家族や脇役がどれぐらい出てくるか、などはシリーズによって異なる。
ではGo!プリンセスプリキュア(ゴープリ)の1話はどんなものか?
監督田中裕太さんのずっと前のツイートから。このときはまだシリーズの監督ではない。演出助手の頃からプリキュアを見つめ続けてきた気鋭の演出家としての発言。
ガンダムの1話はボーイミーツガンダム。プリキュアの1話はガールミーツプリキュア(の力)。何かと出会って物語は動き出す。良いと思います。王道は基本。基本は普遍。
— タナカリオン (@tanakarion) 2013年12月22日
「何かと出会って物語は動き出す」これがキーワードになるか。
そして、実際にこの1話を手がけてから、振り返って。
ゴープリ1話の時も最低限の説明以外の台詞はギリギリまで削ってはるかの変身までの覚悟とアクションの尺に充てた。白金さんの初登場が3話に下がったのはそのため。ほんとは1話から出てくる予定だったん。
— タナカリオン (@tanakarion) 2016年2月15日
アクションについては放映当時からすごく評価が高かった。探せば見られると思うので見てほしい。
ドラマについて言えば「変身までの覚悟」も、覚悟そのものはプリキュア伝統の「なんだかわからないけどとにかくやってみる」であって、これも王道だ。
ではそれ以外に1話で描かれたものは何だったのか?
画像と監督のツイートでひとつひとつ読み解いていきたい。
「世界」を示した(観客とちびっ子と、一年を一緒に歩くスタッフに)
主人公春野はるかは全寮制のノーブル学園にやってくる。
視聴者もはるかも「初めて」ここに来たのだ。
物語のような建物に夢ふくらむはるか。
同室の七瀬ゆいと学園の中を案内されながら見ていく。
視聴者もはるかと同じように「新しい世界」を歩いていく。
これから一年、ここで暮らして、色んなことが起こるよ、と告げられているようだ。
のちのプリキュアとすれ違ったりもする(会話らしい会話はない)。それでもここでの主役は美術であり、学園の内部の風景である。
少し物語は動く。はるかはプリンセスになりたいという夢を持っているが恥ずかしくてそれを堂々とは言えない。
校舎を離れ海辺の手前の森でマスコットキャラと出会い、それが変身のカギになる。
憧れの学園に来ても、それだけではプリンセスになれない。だからこそ彼女は学園から「逸脱」するのだ。
マスコットキャラは文字通りカギを握る。
敵と出会い、プリキュアに変身して戦う。
画像はてきとーです。実際見てほしいので。ところで「突如広いところに出て敵と戦う」のは東映特撮マインドの顕れであろうか(謎の考察)。
最後、夢で会った王子に再会してドキドキする主人公。このポーズはまだプリンセスになりきれていないことを表現しているのかもしれないし、最初からあまりシリアスにはしませんよ、という意思表示かもしれない。
冒頭の車のシーンから学園に入り、森を抜け、ラストまで一筆書きで「GO!プリンセスプリキュア」の世界を駆け抜けた。
「ここで一年物語を作るんだ」という決意にあふれていた。そしてこれだけかっちりと学園の中、外を示すことで、作り手は自然にこの中でまず物語を作ろうと思うだろう。たとえばご飯を食べるなら、食堂か、自室か。あるいは森の近くまで行くか。1話で主な舞台は示されているからそれを前提にした作品づくりになるはずだ。敢えてそれを外すなら、理由が必要になるし、単に食事シーンというだけなら提示済みの場所を使えばよい。それは1年の中での積み重ねで、1話で提示だけした場所に情報が蓄積していく。
ここでは詳細な説明はいらない。舞台がアニメ作品としてごくごく最初期に現出してることが、とても大事だ。
ここで急にTVアニメの話
TVアニメはその工程上、序盤は完成品の作品を見ないままに作らなければいけない。1話が完成する前から2話、3話と各話数のチームは動き始めなければいけないし、1話ができてから軌道修正をしようとしても、その効果が出るのはもっと後になる。
だからこそ、作品の序盤を見返すと「あれ、こんな喋り方意外だな」とかブレが見られることがある。または後で大きな運動場が出てきたのに最初の頃はそれと違うところでスポーツをしていて、そこはもう出てこないなど。
本作はそういうブレが特に特に少ない作品だったと思う。最終話まで観たあとに1話から見返しても、序盤で「何か違う?」と思う箇所は殆どなかったのではないか。
スタッフのコントロールももちろんあるだろう。
でもそれだけでなく、1話でみんなの前に「世界」を見せたことは大きかったのだと思う。
再び本題
別にこの話は、最初から学園の中にいて、特に歩き回ることもなく壁から出てきたマスコットとやっぱり壁から出てきた敵と戦って最後「ゆいちゃんありがとう!」で終わったってできることはできる。
もう1度先のツイートを引用する。
ゴープリ1話の時も最低限の説明以外の台詞はギリギリまで削ってはるかの変身までの覚悟とアクションの尺に充てた。白金さんの初登場が3話に下がったのはそのため。ほんとは1話から出てくる予定だったん。
— タナカリオン (@tanakarion) 2016年2月15日
1話で描かれたのは「世界」だ。すべての人が、監督が丁寧に引いてくれた枠の中で物語を想像し、歩いていく。
スタッフもその世界を共有し、その結果ブレのない作品作りを実現した。
特に1年4クールという「プリキュア」シリーズでこれは絶妙手であり最善手だったと確信している。
世界観、というか画面を構成する要素は美術と色彩設計と、そしてもう一つ。キャラと合わせて最終的に画面構成を決定づけるお仕事…撮影です。
— タナカリオン (@tanakarion) 2013年12月10日
田中裕太は「みんな力(りょく)」ということを以前のエントリーで書いたことがあったけど色々なスタッフへの言及が自作多作問わずとても多い。
1年のシリーズの土台をこしらえるとともに「もっとこの素敵な美術を見てほしい!」という強い思いがあったのではないか。
何より、作品を思い出すときにノーブル学園の校舎が浮かぶ人が結構いるのではないだろうか。ただ美麗な絵を重ねただけではできない、提示して、それを毎週毎週活かしていったからではないか。
田中裕太は1年という時に対して誠実だった。いちファンとしてうれしかった。
結びに代えて
1年かけて物語を描けるプリキュアシリーズは、1クールが主流のアニメの中では異色である。
彼は今、『映画 魔法つかいプリキュア! 奇跡の変身!キュアモフルン!』を監督として作業されていることと思う。
TVシリーズと映画がどんな風に素敵に絡まるのか、今からワクワクもんだぁ!という感じで期待は尽きない。
最後に辛い時でもユーモアを忘れない田中監督のツイートを引用して結びとしたい。
社内を歩いてたら原作の東堂いづみさんとすれ違いました。
— タナカリオン (@tanakarion) 2012年3月31日
秋映画も
頑張れタナカリオン! 負けるなタナカリオン!