山田尚子、京都アニメーションの今後10年はどうなるのか~『聲の形』公開前に

山田尚子監督作品『聲の形』について試写会レポートが上がっていて薄目と細目でちらっと見たところ、出来はともかく自分の考えていたようになってきたようなのでつらつら書いてみる。自分はまだ観てない。

原作のテーマについて意見を書くのでやはり鑑賞前に読むのはおすすめしないです。

 本題、あるいは個人的な問い

山田尚子は『聲の形』に出てくる悪意や疎外といったテーマ、そして様々なマンガ的技法をアニメに翻訳することに興味があるのだろうか? もしNoなら原作から大きく離れてしまうのではないか? そしてそれは受け入れられるのか?

京都アニメーションについての引用

京都アニメーションで強く感じられるのは「原作を無邪気に変えてしまう」ことだ。

アニメスタイル007の花田十輝インタビューでは『響け!ユーフォニアム』5話の身体検査のシーンと各キャラクターの胸の大きさを、石原監督や山田氏がわりと和気あいあいの雰囲気で検討した話が出ている。

アニメスタイル007 (メディアパルムック)

アニメスタイル007 (メディアパルムック)

 

 自分はこれに強く違和感を覚える。

胸の大きさに悩む久美子が描かれていたが、そのふるまいがアニメアニメしてること以前に、そのシーンを描いてしまった久美子は既に原作から離れてしまっている。自分の身体に軽いコンプレックスを感じてヨヨヨと泣くようなコメディぽいシーンはない。

オリジナルを入れるなという意味ではなく等身大の少女がいくぶんアニメっぽい女の子に変わってしまうということだ。

そういった新しいエピソードを挿入することで全体の印象が変わってきてしまう。リアルな少年が悩むのとアニメアニメしいキャラクターが悩むのは、同じ問題を相手にしていても、確実にちがう。

 

そんなに簡単に変えてしまっていいのか。全体と細部との整合性は取れると踏んでいるのか、そこに差異はないと考えているのか。

 

また、インタビュー中では人物を「アニメキャラに寄せる」という印象があったと花田氏は語っている。等身大の学生からアニメっぽいキャラに近づけるような芝居や振る舞いが多めにあったということだろう。

 

前項を受けて~原作を改変するかしないか

原作へのアプローチについては

1、原作どおりで進めていく

2、何かの都合で変えなければならない

3、変えたほうがよいという信念があって変える

の三つが作品ごとに作家ごとに混ざり合うのが普通だろう。

基本的に原作には原作ファンがいて、それを不用意に変えれば、原作ファンはそっぽを向いてしまうというデメリットがある。

好きな言葉ではないが原作レイプという言い方もあるほどにそういった「独走」を嫌う人はいるだろう。それで作品単独で面白かったりすると議論が盛んになったりする。

だが後述する京都アニメーションの作品は、実にあっけらかんと、まるでそうすることが当然のように変容して原作から離れていったのだ。

アニメっぽくするのは意識的?

京都アニメーションの作品のいくつかは明らかに、1~3のうちどれでもない「なんかよくわからないけどアニメアニメした方向に寄せていく」という傾向がある。

筆者にとっては『響け!ユーフォニアム』『氷菓』が特に記憶に残っている。

前者は原作が関西弁でアニメが標準語ということもあるので原作との違いはただでさえ大きい。 

今は後者について述べる。

氷菓はかなりアニメアニメしいアニメになっている。

特に主人公折木奉太郎とヒロイン千反田えるはかなりラノベ風というか、いまどきのアニメ風に変わっていた。台詞は同じでも、画の芝居などがそういう感じに思わせるものだった。

氷菓」の原作はライトノベルではない。それは本の体裁もそうだし、原作者米村穂信もそういう意識では書いていないだろう。

私が読んだ感想は「ジュブナイル」「青春小説」だった。作中「女帝」とされる入須もあくまで学生の枠の中での「女帝」であってアニメでみられたような無敵な印象ではなかった。

 

自分はそれらを楽しくも感じ、違和感もありながらも基本的には面白がって観た。

ただ、作品の最後、えるが原作と同じように、自分の生き方と故郷を語るシーン。

その美しくリアリティのある風景とともに、それまでアニメアニメしいちょっと変わった子だった彼女が急に生身の人間になったような違和感があって、私は戸惑った。

 

シリーズの視聴中、アニメはテイストが違うなあと思って、チューニングを合わせて(アニメのえるはこんな感じの子として)いたところ、ラスト急速に原作に寄っていったので、私は驚いたのだった。おそらくスタッフはそこに差異はないと見たのか、無視できると踏んだのか、いずれにせよ、ネットでざっと見た感じでは好評なまま最終回を終えたように見えた。

 

宮崎駿も原作を変えるエピソードがよくみられるが「こうしたほうが面白いんだ」という信念が感じられるように思える(優劣はともかくしばしば原作とは乖離している)。

一方、京アニの諸作はそういうイデオロギー響きはあまり聞こえてこないし、先ほどの身体検査の話のように、ナチュラルにアニメに寄せていっているような印象がある。

※単に自分がそういうインタビューなどを読み逃しているだけなのかもしれないが。

 

 

ここで『氷菓』放映時の自分のツイート。言ってることはこの記事とだいたい同じ。

 

山田尚子個人にもそういう京都アニメーションの作風があるのか、ということは断定しにくい。山田監督に限らず京アニ作品を観るときに少し身構える自分がいる。フリーフォールのように原作とアニメの乖離の風圧を感じそうで。

 『聲の形』と山田尚子はマッチングするのか?

すごく長い前置きだけども、そういうナチュラルに作品を変えてしまう性質があったとして、それが上手く機能する作品としない作品がある。作品に「遊び」とか「幅」があるとも言える。

 

そして山田尚子監督自信の個性もすごく気になっていた。『けいおん!』もやはり原作とは違うし、それがやっぱりナチュラルになるべくしてそうなったような気がずっとしていた。そういう作家性なのだろうと思っていた。

 

山田尚子は「悪意」と「アクション」が描けるのか?

これはずっと気になっていて後者の『氷菓』の14話「ワイルド・ファイア」においてもテンポよく進められそうなところを、とてもとても丁寧に描いていたのを覚えている。

料理対決をする中で材料が足らずタイムアップが迫っていて、人に呼ばれて校舎まで駆け寄り、材料を受け取るシーン。

f:id:an-shida:20160829122804j:plain

f:id:an-shida:20160829122802j:plain

f:id:an-shida:20160829122759j:plain

 

f:id:an-shida:20160829122914j:plain

f:id:an-shida:20160829123813j:plainf:id:an-shida:20160829123817j:plain

f:id:an-shida:20160829123816j:plainf:id:an-shida:20160829123815j:plain

f:id:an-shida:20160829122805j:plain

 

パンパンパンとテンポよくカットを重ねていけばスピーディな展開になったろうが、たっぷりと時間を取って描いている。

ここは時間に追われているシーンなので、芝居を丁寧に描いた結果、里志が慌てていないようにも見える。

そういう表現を志向していない、あるいはここで描きたい大事なものはそういうスピーディな映像とは違うということなのだと思う。

 *1

「悪意」についてもおどろおどろしいものや醜いものが描けるかという問いではなく、そもそもその方面のアンテナや、それらへの志向があるのだろうか?という疑問だ。

 

 

 再度、個人的な問い

 

山田尚子は『聲の形』に出てくる悪意や疎外といったテーマ、そして様々なマンガ的技法をアニメに翻訳することに興味があるのだろうか? もしNoなら原作から大きく離れてしまうのではないか? そしてそれは受け入れられるのか?

どんなジャンルでもできる作家とそうでない作家がいて山田尚子は後者だと思うというところだ。

 

 

近年は監督の個性と作品がマッチした製作が行われることが多いと思う。たとえば出崎監督の『劇場版Air』のような冒険的な作品は少ないと思う。でもクリエイターはどんな天才でもピッチャー、キャッチャー、ショートを全部務められないし、すべての楽器の協奏曲を一人で書き上げることも普通はできない。

山田尚子のやりたいこと、任せてみんなが幸せになるもの、京都アニメーションが実力を発揮し、評価され、愛される作品って何なのか。

そういったものを見極めていきたいと思う。できれば皆が幸せであってほしい。人生の大きな時間をかけて作品を作り、それよりは幾分小さな時間をかけてそれを観るのだから。

 

言わずもがなの追記

山田監督が「聲の形」を理解できていないという意味ではない。原作ファンと視点が違うのかもしれない、ということだ。ただそれが悪いということではなく、まっとうなあたりまえの受け止め方、見え方しかしないとしたら、その人は、際立った作品が作れないのではないか、とも思う。

彼女は際立った作品を作った。その個性も明らかだ、そしてその独自の視点は作品のファンとコンフリクトするんでないか、という話。

自分は「聲の形」は【障害者に出くわしたことで関わった人の人生に変化があって、そのことを踏まえて未来へ歩む話】だと認識しているので、それがどのように表現されるか、公開が待ち遠しい。

*1:2chで感想を探してたときに、ここのゆっくりに疑問を投げたレスがあって山田監督と知って納得したという書き込みがあったことを記憶している