1.前回までのあらすじ
大好きなマンガ「この世界の片隅に」が、これまた大好きな映画『マイマイ新子と千年の魔法』の監督片渕素直さんが作る! 決まったはいいがなかなか情報が出てこないまま2012年は終わった。そしてアニメスタイルイベントが立ち上がった2013年に。
2.2013年 上半期なかなか動かない。
続きを読む題字までこうの史代で、大満足としか言えない。 pic.twitter.com/HvElCRK4NU
— an_shida (@an_shida) 2013年3月14日
大好きなマンガ「この世界の片隅に」が、これまた大好きな映画『マイマイ新子と千年の魔法』の監督片渕素直さんが作る! 決まったはいいがなかなか情報が出てこないまま2012年は終わった。そしてアニメスタイルイベントが立ち上がった2013年に。
続きを読む題字までこうの史代で、大満足としか言えない。 pic.twitter.com/HvElCRK4NU
— an_shida (@an_shida) 2013年3月14日
ついに『この世界の片隅に』が11月12日に劇場公開される。
待ちに待った、ようやくという気持ちばかりだ。
それで思い立って自分のツイートを読み返していた。
すると自分でも案外何を言ったか忘れている。映画作りが平坦な道でなかったせいもあって、自分もずっと傍らに寄り添っているわけではなかった。
先に言っておくと、片渕監督に常に寄り添っているわけではなかった。ある程度の距離を置きつつ待ち続けた記録だ。なぜそうしたかといえば、そうしないと心が持たないと思ったからで、つまりはそれくらい長く、下りてくる情報が少なかった。
10年近い時間をこの作品とつきあってきた歴史がちょっと面白かったのでつぶやきを引用しつつ、自分なりに振り返ってみたいと思う。
できれば最近『この世界の片隅に』を知った方にも、いちファンの時間の流れを少しでも感じてもらえたら嬉しい。
ちなみに新米小僧さんの書き方を参考にしました。
新米小僧さんは淡々と観たアニメを書き出していて年末の10選の準備という意味もあるかもしれないが、その継続力には頭が下がる思いです。
というわけで以下に自分の観たアニメを羅列するが、再見は含まない。
ラブライブ!サンシャイン!! 第13話
魔法つかいプリキュア 第2話~第33話
陰陽大戦記 第2話~第21話
名犬ラッシー 第1話~第5話
ゼーガペイン 第1話~第10話
プリティーリズム・オーロラドリーム
第1話~第5話
第1話~第3話
流れとしては陰陽大戦記が見たくてバンダイチャンネル加入して名犬ラッシーとゼーガペインを見て、あとは菱田、片渕を追いかけるという感じ。
夏アニメがほぼ全く観れていないのが清々しい。
Togetterというtwitterまとめサイトがある。話題になったツイートやその反響、事件の反応などが読みやすくまとまっていることもあって定期的に見ている。
コメントもできるようになっていて、「いいね」をつけることもできる。
気が向いたときにてきとうなコメントをつけていたらわりと分量が増えたので
せっかくだから自選で5つほど選んでみた。昔のニュースや話題の拾遺にもなるかなと思ってやってみた。
1つ目。アニメスタジオに温泉がついた話。
自分のコメント。最初のコメントが過労死と繋げるようなちょっと元ツイートのテイストと違う感じだったので自分もコメした。※右下の数字はいいね数で、数が多いと文字の大きさと色が変わる。赤がいちばんえらい。私がえらいわけではない。
いいね数はトップだが大体こういうちゃらんぽらんなコメントが多い。なおゼクシズのお風呂回は確認していない。
2つ目。ミント育ちすぎて庭がミントだらけになった話。
『キテレツ大百科』なら「もうミントはこりごりナリよ~」でコロ助がアイリスアウトして終わる話。雪室脚本ぽい。
自分のコメント。
ヒヤリハットを知らないと面白くもなんともない。知ってても別に面白くはないが。
3つ目。
高齢者になってから夫に想い人ができて家出されてしまい、図書館が安楽の場所となった話。いい話なのかどうなのか、だれが悪いのかなど、議論が盛んだった。
ひねくれた自分のコメント。こういう案件は道徳論よりもひっくり返したほうがシャープで目立つのかと思う。完全に星新一メソッドで手軽感だけど。
4つ目。twitterでよくある「わかりやすい寓話だけど別に正しくない」バズった系。
こういうのが好きな人は手軽にわかった気になる爽快感を味わいたいのだと思う。
クラシック音楽が廃れたのは「作法や聴き方を押しつけるマニアのせい」という議論。
そんな経験ある人いますか。
クラシック音楽ということで自分の守備範囲に入ってきたのでコメントした。
アニメやゲームの話につなげたのは「そもそもただでさえ数の少ないクラシックファンに出会った上に、そんな迷惑食らう経験あんのか」という感想から。
クラシック市場については第九のCD普通は一枚あればもう買わないよね、という話。あとクラシックコンサートで緊張する、敷居が高いという話はちょこちょこ聞くが、マニアに迷惑かけられた話はあんまり見た事がないのでこういう風に思った。前者についても「艦これコンサート行くけど服は何着て行けばいいのかな」「寝ちゃわないかな」とかの話ぐらいでマニア関係ないし。
好きなように楽しんでいいし、そんなマニアに突撃されることないでしょと。
5つ目。わりと最近のまとめ。
学生時代の実話を書いた。
「NARUTO」が流行る前だったので、欧米人は忍者好きだなーくらいの感想しかなかった。その後ネオサイタマに居住するサツバツサラリメン生活を送るとはノーパースペクティブだった。
特にオチもなく終了!
ぎけんさんの企画が面白そうで参加しました。
年末の10選にもうんうん唸って書いてるのでどうなるかと思ったけどなんとかできました。10個ないけど!
◆ マイベストエピソードとは?
「作品としてはベストに選ばないけど好きな話数」をコンセプトに、アニメ作品の好きな話数を選出し紹介する企画です。
※ コンセプトは強制ではありませんので気楽に考えてください
◆ マイベストエピソードのルール
・ 劇場版を除くすべてのアニメ作品の中から選出(配信系・OVA・18禁など)
・ 選ぶ話数は5~10個(最低5個、上限10個)
・ 1作品につき1話だけ
・ 順位はつけない
・ 自身のブログで更新OK(あとでこのブログにコピペさせていただきます)
・ 画像の有無は問わない
・ 締め切りは8月末まで
つらつら思い出して書いてたら以下の8本が上がりました。1作1作思い出していくとこれ以外も上がってくると思うんだけど、今の心境としてはこれでよし、です。
あと
>>作品としてはベストに選ばないけど は
「作品そのものがベストから漏れる」
「作品はベストに入るけど、下に出した話数はその中のベスト話数ではない」くらいにとらえてます。
大切なものを忘れてしまった少女(演:花澤香奈)を軸に、忘れた何かをコミカルかつ抒情的に探す話。中村亮介を初めて意識した回。オチがくだらなすぎるところも最高。
脚本 千葉茂樹 白石なな子 絵コンテ・馬場健一 高畑勲 演出・馬場健一
赤毛のアンはとても好きなアニメで、一本選ぶならこれ。
4クールある作品だけど序盤はアンも幼く1話で半日とか数時間くらいということもあって時間の流れがゆったりとしている。
中盤以降はアンも進学して作中の時間の流れも早く、レイアウトの宮崎駿が抜けたこともあって、画面も淡々と進んでいく。
「もっとたっぷりとした時間を味わいたいなあ、最初の頃の濃密な時間はもう訪れないのかなあ」と思いながら話数をどんどん消化していくけど加速度的に時は流れていく。
だからと言ってドラマティックな事件が起こるかというとそうでもない。少年時代が急速に失われていくような寂しさを何時間も何話もかけて味わっていくと、無口なマシュウがアンへの気持ちを初めて口にする場面にさしかかる。
そうさのう、わしゃあなあ、アン。1ダースの男の子よりもおまえにいてもらう方がいいよ。
いいかい?1ダースの男の子よりもだよ。
そうさのう、エイブリー奨学金を取ったのは男の子じゃなかったろ?
女の子さ、わしの女の子だよ。わしの自慢の女の子じゃないか。アンはわしの娘じゃ。
長いこの作品でマシュウがアンをこれだけ長い言葉で語ったのは他にない。猛烈な速さで子供時代が過ぎていく、零れ落ちていくなかで、この朴訥な語りは何よりも優しい。
見どころのある回は他にもたくさんあると思うし、演出や作画の際立つ回もあると思うけど、淡々とした中の抒情がとても好きだ。
暗い富野監督作品。
思春期に観て強い衝撃を受けた一作。悪役であるカテジナは多くの人を殺し、暴虐の限りを尽くす。最後には全てに敗れ、盲目になるものの生きながらえ、自らの行いを誰からも責められることなく、誰も味方にも敵にもならず、それでも生きているそのラスト。罰でもなく地獄でもなく、生のみがあるこのラストに20年経ってもまだ余韻が残っているような気がする。この独特な作品の着地が、心をとらえつづけているのかもしれない。
明るい富野監督作品。本作の敵は序盤でいきなり時間停止など掟破り的チート的豪快さがあったが、それにならってこの話の敵は相手の心を読む。
その倒し方が「片思い中の人への愛の告白を延々心の中で叫び倒して敵がうんざりして油断したところを攻撃する」というふざけたもので、しかもそれが想い人にも聞こえているという、痛快なまでに明るい一本。
敵がいて、好きな人がいてー、くらいの知識でも余裕で見れると思う。
脚本 庵野秀明 絵コンテ小倉陳利 演出安藤健
淡々とした抒情が素晴らしいと思う。台詞でないナレーションの言葉の強さも印象的だ。話を忘れても余韻がずっと残ってるような一本。
この話数が好きなのは単純に『血界戦線』の中でいちばんシンプルにTVアニメしていたからだ。
軽妙なギャグパート、気の利いた台詞、謎めいた設定、とにかく強そうな敵、熱くかっこいい必殺技。TVアニメのフォーマットの典型に収まりつつ、それでも松本理恵が強く自己主張している。ああ面白かった!で終わってそれでいい。
脚本他 板垣伸
オチが最高。台詞はこのぐらいのテンポでよいと思います。
脚本 城山昇 絵コンテ・演出 西村純二
ゴルフ勝負をするアニメで主人公の必殺技はボールをグリーンの旗に当てそのままチップインする「旗包み」。
とにかくこの技が強くそこまでどうやって持っていくかという展開は毎回子供心にその画の迫力もあって手に汗握って観ていた。逆に旗包みが出ると、ああもう決まりだなと思っていた。
といったところでこの回はなんと旗が金属製でボールを跳ね返すという「そんなんありか」というもの。だが暗めの画面とそのただならぬ雰囲気で一本観せてしまう。
冷静になると「ねーよ」と思うけど実際見ると引き込まれてしまう。そんな話。
脚本 坪田文 絵コンテ 青葉譲 演出 小林浩輔
ライバルの演技に圧倒されステージ上で緊張のあまり泣き出してしまう主人公「なる」。曲を提供したコウジはなるのために客席から歌い、なるを勇気づける。落ち着きを取り戻したなるは見事演技を成功させる。そしてコウジのライバルであるヒロは、コウジがなるのために勇気を出して歌ったことに強いショックを受け、さらなる策略を巡らそうとするのであった……。
というあらすじからは全く想像つかないぐらいわけわからない画面になっていて、菱田正和ここにあり、という感じの一本。
菱田流の
ストーリーの骨格=オーソドックスなくらいよくわかる
出来上がった作品=全くわからない
という図式は揺らがない。大好きですよ。
脚本 田中仁 絵コンテ・演出 田中裕太
毎年新シリーズの始まるプリキュアの1話として完璧。作品としてだけでなく1年4クール作品の1話として一切の不足がない。とても長くなったので別項を立てた。
Go!プリンセスプリキュア1話を初めて見た本放送時、つよく衝撃を受けた。
それは1年にわたる物語へとやさしく導くだけでなく、おそらく長い間ともに歩むスタッフへも向けて、美しく一本の線を引いた、そんな第1話だった。
アニメに限らず1話は作品の導入、引きとしてシリーズの顔になるのは間違いない。
プリキュアシリーズは毎年新シリーズがスタートして、そのたびに様々な1話が作られる。そこには作り手が何を大事にしたいか、1話をどう捉えているかが見えるときがある。
プリキュアシリーズの1話はおおまかに言うと「主人公が出てきて敵に出くわしてなんだかよくわからないけど変身する」ということだ。敵を倒すまでいくか、のちにプリキュアになる仲間たちと出会うか、家族や脇役がどれぐらい出てくるか、などはシリーズによって異なる。
ではGo!プリンセスプリキュア(ゴープリ)の1話はどんなものか?
監督田中裕太さんのずっと前のツイートから。このときはまだシリーズの監督ではない。演出助手の頃からプリキュアを見つめ続けてきた気鋭の演出家としての発言。
ガンダムの1話はボーイミーツガンダム。プリキュアの1話はガールミーツプリキュア(の力)。何かと出会って物語は動き出す。良いと思います。王道は基本。基本は普遍。
— タナカリオン (@tanakarion) 2013年12月22日
「何かと出会って物語は動き出す」これがキーワードになるか。
そして、実際にこの1話を手がけてから、振り返って。
ゴープリ1話の時も最低限の説明以外の台詞はギリギリまで削ってはるかの変身までの覚悟とアクションの尺に充てた。白金さんの初登場が3話に下がったのはそのため。ほんとは1話から出てくる予定だったん。
— タナカリオン (@tanakarion) 2016年2月15日
アクションについては放映当時からすごく評価が高かった。探せば見られると思うので見てほしい。
ドラマについて言えば「変身までの覚悟」も、覚悟そのものはプリキュア伝統の「なんだかわからないけどとにかくやってみる」であって、これも王道だ。
主人公春野はるかは全寮制のノーブル学園にやってくる。
視聴者もはるかも「初めて」ここに来たのだ。
物語のような建物に夢ふくらむはるか。
同室の七瀬ゆいと学園の中を案内されながら見ていく。
視聴者もはるかと同じように「新しい世界」を歩いていく。
これから一年、ここで暮らして、色んなことが起こるよ、と告げられているようだ。
のちのプリキュアとすれ違ったりもする(会話らしい会話はない)。それでもここでの主役は美術であり、学園の内部の風景である。
少し物語は動く。はるかはプリンセスになりたいという夢を持っているが恥ずかしくてそれを堂々とは言えない。
校舎を離れ海辺の手前の森でマスコットキャラと出会い、それが変身のカギになる。
憧れの学園に来ても、それだけではプリンセスになれない。だからこそ彼女は学園から「逸脱」するのだ。
マスコットキャラは文字通りカギを握る。
敵と出会い、プリキュアに変身して戦う。
画像はてきとーです。実際見てほしいので。ところで「突如広いところに出て敵と戦う」のは東映特撮マインドの顕れであろうか(謎の考察)。
最後、夢で会った王子に再会してドキドキする主人公。このポーズはまだプリンセスになりきれていないことを表現しているのかもしれないし、最初からあまりシリアスにはしませんよ、という意思表示かもしれない。
冒頭の車のシーンから学園に入り、森を抜け、ラストまで一筆書きで「GO!プリンセスプリキュア」の世界を駆け抜けた。
「ここで一年物語を作るんだ」という決意にあふれていた。そしてこれだけかっちりと学園の中、外を示すことで、作り手は自然にこの中でまず物語を作ろうと思うだろう。たとえばご飯を食べるなら、食堂か、自室か。あるいは森の近くまで行くか。1話で主な舞台は示されているからそれを前提にした作品づくりになるはずだ。敢えてそれを外すなら、理由が必要になるし、単に食事シーンというだけなら提示済みの場所を使えばよい。それは1年の中での積み重ねで、1話で提示だけした場所に情報が蓄積していく。
ここでは詳細な説明はいらない。舞台がアニメ作品としてごくごく最初期に現出してることが、とても大事だ。
TVアニメはその工程上、序盤は完成品の作品を見ないままに作らなければいけない。1話が完成する前から2話、3話と各話数のチームは動き始めなければいけないし、1話ができてから軌道修正をしようとしても、その効果が出るのはもっと後になる。
だからこそ、作品の序盤を見返すと「あれ、こんな喋り方意外だな」とかブレが見られることがある。または後で大きな運動場が出てきたのに最初の頃はそれと違うところでスポーツをしていて、そこはもう出てこないなど。
本作はそういうブレが特に特に少ない作品だったと思う。最終話まで観たあとに1話から見返しても、序盤で「何か違う?」と思う箇所は殆どなかったのではないか。
スタッフのコントロールももちろんあるだろう。
でもそれだけでなく、1話でみんなの前に「世界」を見せたことは大きかったのだと思う。
別にこの話は、最初から学園の中にいて、特に歩き回ることもなく壁から出てきたマスコットとやっぱり壁から出てきた敵と戦って最後「ゆいちゃんありがとう!」で終わったってできることはできる。
もう1度先のツイートを引用する。
ゴープリ1話の時も最低限の説明以外の台詞はギリギリまで削ってはるかの変身までの覚悟とアクションの尺に充てた。白金さんの初登場が3話に下がったのはそのため。ほんとは1話から出てくる予定だったん。
— タナカリオン (@tanakarion) 2016年2月15日
1話で描かれたのは「世界」だ。すべての人が、監督が丁寧に引いてくれた枠の中で物語を想像し、歩いていく。
スタッフもその世界を共有し、その結果ブレのない作品作りを実現した。
特に1年4クールという「プリキュア」シリーズでこれは絶妙手であり最善手だったと確信している。
世界観、というか画面を構成する要素は美術と色彩設計と、そしてもう一つ。キャラと合わせて最終的に画面構成を決定づけるお仕事…撮影です。
— タナカリオン (@tanakarion) 2013年12月10日
田中裕太は「みんな力(りょく)」ということを以前のエントリーで書いたことがあったけど色々なスタッフへの言及が自作多作問わずとても多い。
1年のシリーズの土台をこしらえるとともに「もっとこの素敵な美術を見てほしい!」という強い思いがあったのではないか。
何より、作品を思い出すときにノーブル学園の校舎が浮かぶ人が結構いるのではないだろうか。ただ美麗な絵を重ねただけではできない、提示して、それを毎週毎週活かしていったからではないか。
田中裕太は1年という時に対して誠実だった。いちファンとしてうれしかった。
1年かけて物語を描けるプリキュアシリーズは、1クールが主流のアニメの中では異色である。
彼は今、『映画 魔法つかいプリキュア! 奇跡の変身!キュアモフルン!』を監督として作業されていることと思う。
TVシリーズと映画がどんな風に素敵に絡まるのか、今からワクワクもんだぁ!という感じで期待は尽きない。
最後に辛い時でもユーモアを忘れない田中監督のツイートを引用して結びとしたい。
社内を歩いてたら原作の東堂いづみさんとすれ違いました。
— タナカリオン (@tanakarion) 2012年3月31日
秋映画も
頑張れタナカリオン! 負けるなタナカリオン!
山田尚子監督作品『聲の形』について試写会レポートが上がっていて薄目と細目でちらっと見たところ、出来はともかく自分の考えていたようになってきたようなのでつらつら書いてみる。自分はまだ観てない。
原作のテーマについて意見を書くのでやはり鑑賞前に読むのはおすすめしないです。
山田尚子は『聲の形』に出てくる悪意や疎外といったテーマ、そして様々なマンガ的技法をアニメに翻訳することに興味があるのだろうか? もしNoなら原作から大きく離れてしまうのではないか? そしてそれは受け入れられるのか?
京都アニメーションで強く感じられるのは「原作を無邪気に変えてしまう」ことだ。
アニメスタイル007の花田十輝インタビューでは『響け!ユーフォニアム』5話の身体検査のシーンと各キャラクターの胸の大きさを、石原監督や山田氏がわりと和気あいあいの雰囲気で検討した話が出ている。
自分はこれに強く違和感を覚える。
胸の大きさに悩む久美子が描かれていたが、そのふるまいがアニメアニメしてること以前に、そのシーンを描いてしまった久美子は既に原作から離れてしまっている。自分の身体に軽いコンプレックスを感じてヨヨヨと泣くようなコメディぽいシーンはない。
オリジナルを入れるなという意味ではなく等身大の少女がいくぶんアニメっぽい女の子に変わってしまうということだ。
そういった新しいエピソードを挿入することで全体の印象が変わってきてしまう。リアルな少年が悩むのとアニメアニメしいキャラクターが悩むのは、同じ問題を相手にしていても、確実にちがう。
そんなに簡単に変えてしまっていいのか。全体と細部との整合性は取れると踏んでいるのか、そこに差異はないと考えているのか。
また、インタビュー中では人物を「アニメキャラに寄せる」という印象があったと花田氏は語っている。等身大の学生からアニメっぽいキャラに近づけるような芝居や振る舞いが多めにあったということだろう。
原作へのアプローチについては
1、原作どおりで進めていく
2、何かの都合で変えなければならない
3、変えたほうがよいという信念があって変える
の三つが作品ごとに作家ごとに混ざり合うのが普通だろう。
基本的に原作には原作ファンがいて、それを不用意に変えれば、原作ファンはそっぽを向いてしまうというデメリットがある。
好きな言葉ではないが原作レイプという言い方もあるほどにそういった「独走」を嫌う人はいるだろう。それで作品単独で面白かったりすると議論が盛んになったりする。
だが後述する京都アニメーションの作品は、実にあっけらかんと、まるでそうすることが当然のように変容して原作から離れていったのだ。
京都アニメーションの作品のいくつかは明らかに、1~3のうちどれでもない「なんかよくわからないけどアニメアニメした方向に寄せていく」という傾向がある。
筆者にとっては『響け!ユーフォニアム』『氷菓』が特に記憶に残っている。
前者は原作が関西弁でアニメが標準語ということもあるので原作との違いはただでさえ大きい。
今は後者について述べる。
『氷菓』はかなりアニメアニメしいアニメになっている。
特に主人公折木奉太郎とヒロイン千反田えるはかなりラノベ風というか、いまどきのアニメ風に変わっていた。台詞は同じでも、画の芝居などがそういう感じに思わせるものだった。
「氷菓」の原作はライトノベルではない。それは本の体裁もそうだし、原作者米村穂信もそういう意識では書いていないだろう。
私が読んだ感想は「ジュブナイル」「青春小説」だった。作中「女帝」とされる入須もあくまで学生の枠の中での「女帝」であってアニメでみられたような無敵な印象ではなかった。
自分はそれらを楽しくも感じ、違和感もありながらも基本的には面白がって観た。
ただ、作品の最後、えるが原作と同じように、自分の生き方と故郷を語るシーン。
その美しくリアリティのある風景とともに、それまでアニメアニメしいちょっと変わった子だった彼女が急に生身の人間になったような違和感があって、私は戸惑った。
シリーズの視聴中、アニメはテイストが違うなあと思って、チューニングを合わせて(アニメのえるはこんな感じの子として)いたところ、ラスト急速に原作に寄っていったので、私は驚いたのだった。おそらくスタッフはそこに差異はないと見たのか、無視できると踏んだのか、いずれにせよ、ネットでざっと見た感じでは好評なまま最終回を終えたように見えた。
宮崎駿も原作を変えるエピソードがよくみられるが「こうしたほうが面白いんだ」という信念が感じられるように思える(優劣はともかくしばしば原作とは乖離している)。
一方、京アニの諸作はそういうイデオロギー響きはあまり聞こえてこないし、先ほどの身体検査の話のように、ナチュラルにアニメに寄せていっているような印象がある。
※単に自分がそういうインタビューなどを読み逃しているだけなのかもしれないが。
ここで『氷菓』放映時の自分のツイート。言ってることはこの記事とだいたい同じ。
氷菓
— an_shida (@an_shida) 2013年1月12日
オタク的思考で文芸作品を読み替えてしまった問題作。宮崎駿のように信念を持って改変するというよりも、「素」のままでやってしまったような。サブカルチャーがメインカルチャーにとってかわった瞬間なのか、単なる勘違いなのか。そしてそれが受け入れられた2012年。#otaku2012
山田尚子個人にもそういう京都アニメーションの作風があるのか、ということは断定しにくい。山田監督に限らず京アニ作品を観るときに少し身構える自分がいる。フリーフォールのように原作とアニメの乖離の風圧を感じそうで。
すごく長い前置きだけども、そういうナチュラルに作品を変えてしまう性質があったとして、それが上手く機能する作品としない作品がある。作品に「遊び」とか「幅」があるとも言える。
そして山田尚子監督自信の個性もすごく気になっていた。『けいおん!』もやはり原作とは違うし、それがやっぱりナチュラルになるべくしてそうなったような気がずっとしていた。そういう作家性なのだろうと思っていた。
山田尚子は「悪意」と「アクション」が描けるのか?
これはずっと気になっていて後者の『氷菓』の14話「ワイルド・ファイア」においてもテンポよく進められそうなところを、とてもとても丁寧に描いていたのを覚えている。
料理対決をする中で材料が足らずタイムアップが迫っていて、人に呼ばれて校舎まで駆け寄り、材料を受け取るシーン。
パンパンパンとテンポよくカットを重ねていけばスピーディな展開になったろうが、たっぷりと時間を取って描いている。
ここは時間に追われているシーンなので、芝居を丁寧に描いた結果、里志が慌てていないようにも見える。
そういう表現を志向していない、あるいはここで描きたい大事なものはそういうスピーディな映像とは違うということなのだと思う。
「悪意」についてもおどろおどろしいものや醜いものが描けるかという問いではなく、そもそもその方面のアンテナや、それらへの志向があるのだろうか?という疑問だ。
山田尚子は『聲の形』に出てくる悪意や疎外といったテーマ、そして様々なマンガ的技法をアニメに翻訳することに興味があるのだろうか? もしNoなら原作から大きく離れてしまうのではないか? そしてそれは受け入れられるのか?
どんなジャンルでもできる作家とそうでない作家がいて山田尚子は後者だと思うというところだ。
近年は監督の個性と作品がマッチした製作が行われることが多いと思う。たとえば出崎監督の『劇場版Air』のような冒険的な作品は少ないと思う。でもクリエイターはどんな天才でもピッチャー、キャッチャー、ショートを全部務められないし、すべての楽器の協奏曲を一人で書き上げることも普通はできない。
山田尚子のやりたいこと、任せてみんなが幸せになるもの、京都アニメーションが実力を発揮し、評価され、愛される作品って何なのか。
そういったものを見極めていきたいと思う。できれば皆が幸せであってほしい。人生の大きな時間をかけて作品を作り、それよりは幾分小さな時間をかけてそれを観るのだから。
山田監督が「聲の形」を理解できていないという意味ではない。原作ファンと視点が違うのかもしれない、ということだ。ただそれが悪いということではなく、まっとうなあたりまえの受け止め方、見え方しかしないとしたら、その人は、際立った作品が作れないのではないか、とも思う。
彼女は際立った作品を作った。その個性も明らかだ、そしてその独自の視点は作品のファンとコンフリクトするんでないか、という話。
自分は「聲の形」は【障害者に出くわしたことで関わった人の人生に変化があって、そのことを踏まえて未来へ歩む話】だと認識しているので、それがどのように表現されるか、公開が待ち遠しい。